甲子園で仙台育英が優勝するのをみたり、NHKスペシャルで会津坂下駅にいたときに構内の肥飼料センターを一緒に作った川島東さんが学徒動員の思い出を語るのを見たりして、このところ晩酌に「ホヤ酢」を食ったりしていると、仙台見習いのころのことがいろいろ思い出されてくる。

とうじの管理局長は渋沢誠次という方だった。
現場の人からみると管理局長と言えば雲の上の人で、口をきくのも畏れ多いような存在だった。
その後何年も経ってJRになってからでさえ、千葉支社長(昔の管理局長)になったとき、現場の人たちと酒を飲むことが多かったが、隣に座った男から「あんたほんとに支社長だよねえ、俺は支社長と並んで酒を飲んでるなんて信じられねえ」などといわれることもあったくらいだ。

いわゆる大学の法学部を卒業して国鉄に入社した事務系エリートたちは「鉄法会」というのを作っていて、年に一度くらい集まって酒を飲んでいた(今はもうないだろう)。
そこには新人の私も参加させてもらうのだが、人事課長が前もって注意して言うのには、「局長は中学(旧制)卒で資格を取ってきた人だから、大学のことはいうな」、大学出の部長以下はなんとなく敬して遠ざけているようだった。

渋沢さんが、長野中学の卒業であることを知った私は宴席半ば局長の前に行ってお酌をしながら、私も長野高校です、といった。
「そうか!」破顔一笑、渋沢さんは何杯も、酒を注いでくれた。
日曜日は、ひとりで官舎にいるから遊びにこい、ともいってくれた。

寮にいる友人や先輩を誘ったけれど、みんな行かないという。
私は電話して一人で遊びに行った。
「おお、よく来たな、あがれあがれ、今原稿を書いているから、そこで待っていろ。ああ、そうだ本屋に行ってこれとこれを買って来てくれ、お釣りは君の好きな本を買っていいぞ」といくばくか(3000円くらいだったか)を渡してくれた。
言いつけられた本は買えたが、さあ、自分の本はどうしよう。
何も買わないで帰るのも水くさいようだし、そうかといってミステリや小説ではなんだから、、ジュリストだったか法律旬報だったか、労働法令の特集が載っているのを買って帰った。
帰ると渋沢さんは「何を買った?え、それだけか、もっと買えばよかったのに」と笑っていた。

「飯のタネ」というのが、とうじ局長が社内広報誌に連載していた記事の表題だった。
国鉄の仕事は、みんなの「飯のタネ」だと、シンプルに仕事の大切さを訴えていた。
そういう立場の人が言いがちな「国鉄再建のため」とか「国家の物流を支える」「合理化が至上命題」みたいなことを言わないのが、私には心地よかった。
出来上がった原稿を見せて、読んでみろというから、その場で読んで、そう言ったらまた嬉しそうに笑った。

それから、二人で市内の繫華街に出て、民謡酒場(めんよう酒場ときこえた)で、呑んで歌い、小さなおでん屋に流れ、もう一軒くらい歩くころは、渋沢さんは千鳥足、やや呂律もおかしくなって、肩を組んであっちへよろよろこっちへよろよろ、店の女将が失礼なことをいうので、思わず「この人は、、」と言いかけたら、すかさず肘をつついて、その先を言わせなかった。

それからもニ三度、官舎に遊びに行き、一度は東京にいる奥様がいらしてご馳走をしてくれた。
見習い期間を終えて本社に戻るとき「経理局の主計課、総裁室の秘書課が出世コース」と教えてくれたが、どちらも縁がなかったし、行きたいとも思わなかった。

結婚式の時は東京鉄道管理局の局長をされていて、披露宴に来てくださった。
披露宴の後、同期の友人たちを二次会に連れて行って下さったが、「きさくな人だね」と友人が言った。

会津坂下の人はみんな懐かしいのだけれど、今回はこの人。

筆頭助役(職名ではなくいちばん先輩の助役)の長さん。
駅員たちはちゃんと○○助役さんと呼んでいたけれど、わたしは長さんと呼んだ。
現場では、とくに管理職に対しては、きちんと職名をつけて呼ぶのが普通だったから、「わし、ちょうさんですかあ」とちょっと面食らったようだったが、そのうち、ほいきた長さんになってくれた。

最年長で、ずっと会津線にいた。
坂下から只見にむかって二つ先の会津柳津の旅館の長男?で、それがゆえに会津線を離れることを嫌い駅長試験は受けなかった。
「頭がいいし、何でも知っている」と他の助役は、少し恐れをにじませて話してくれた。
鉄道現場の知識に詳しく、運転保安関係について、現場幹部がなにより怖がる管理局の保安検査への対応などでは、彼の「指導」を大事にして準備した。
といっても、もう上に行こうという気持ちがないから、私の立場がおかしくならない程度の準備を教えて(今までの駅長の準備万端ぶりはこんなものじゃない、といいつつ)くれた。

官僚的な運輸長や管理局の指導で、理不尽なことがあると、私は「それは間違っている」という。
長さんは、「そんなこと言ったって、どこの駅でもこれに従っている、駅さんは学士だからそんなことを言える、局も本社も駅さんのように考えてくれればいいけれど」とちょっと不貞腐れることもあった。

正直なところ、私以外の助役を含めた駅員たちがおそれていたのは、少しだけ意地の悪いところもあったのではないか。
私は頼りになる親父みたいな感じで、たいていのことは相談してやった。
留置線に置いてあるタンク車からぽたぽた洩れる石油を貯めて、石油ストーブで楽に暖をとることなんかも。
コークスのストーブが決まりで、石油ストーブなんか支給してくれなかった管理局だった。
私が酔っぱらって不始末をしたときに尻ぬぐいの方法を指南してくれたのも長さんだった。

酒が好きで、しょっちゅう酒を飲む会を提案した。
出札のムネやんも酒好きで、二人とも強かった。
若宮の朝鮮人の民家でドブロクをあおって生の豚のモツを食らった。
今でも行きたいくらいうまかった。

会津坂下は特殊日勤といって、駅長は日勤だが、その後21時過ぎの最終まで駅の仕事はあって、助役が交代で当務駅長として列車扱いをする。
その後、出番だった駅員は駅に泊まって、翌朝の列車を扱い、日勤時間帯に出てくる駅長以下当務駅長たちと引継ぎをするのだ。

妻が長男のお産のために東京にいて、私が単身でいたころ、一杯やってから駅に行くことがニ三度あった。
ようすを見たいというつもりと、みんなと話したい気もあったが、長さんが最終列車のあと、酒を飲んでいると告げ口をする人がいたのだ。

私が行った時は、誰も酒を飲んでいなかった。

あるとき、長さんが「駅さん、夜になって駅に来るのは止めてくれ、みんなちゃんとやってるところに赤い顔をしてきていろいろ喋っていくのはよくない。何かあれば駅長官舎に知らせるから信用してくれ」ときっぱり言う。
それから、夜駅に行くことをやめた。
赤い顔をしていなくとも、行くのをやめた。
仕事がすべて終わってひと風呂浴びて、狭い寝室で雑魚寝する前に冷や酒の一杯や二杯、呑んだところで、何が問題だ、俺だって機関士見習いや局の指令当直見習いのときに茶碗酒を飲んだではないか。
と思ったのだ。
密かに駅に行って、彼らの飲酒現場を見つけたら、いったいどうするのか。
もしかしたら、自分も一杯(落語の禁酒番屋や二番煎じのように)付き合うことになりかねないとも。
それとも、「俺の任期の間だけは禁酒してくれ」とでもいうのか(アホか)、と。

一年過ぎて、人事異動で、千葉局に異動するとき駅員たちに挨拶をしていたら、涙がこらえられなくなって、せき挙げてしまうと、すぐに長さんも泣き出して、ほかのみんなも泣き出した。

懐かしい人たちのことをときどき書こう。

会津坂下駅の人たちはみんな懐かしいのだけれど、今回はSさんのこと。
五十になろうかというSさんは、踏切保安係(踏切警手)だった。
小柄で、やせっぽち、いつも笑顔でみんなから「しょうちゃん」と呼ばれていた。
仕事は真面目一本だ。

しょうちゃんが、受験勉強を始めた。
国鉄は上位の職務につくのには試験に通らないとダメなのだ。
筆記試験さえ通れば、日ごろの勤務成績や駅長の推薦も影響するけれど、しょうちゃんはその筆記試験が苦手だった。

試験が苦手だから、ずっとこのまま踏切番でいようと思っていたしょうちゃんの気持ちを変えたのは息子の一言だった。
雨の日も雪の日も、とうちゃんだけが踏切に立っていて、駅長さんや○○君のとうちゃんたちは駅んなかにいるのは、なぜなの?
なんでとうちゃんだけなの?

出札や改札担当になれる運輸係(だったと思う)の試験のために鉄道学園の通信教育を受け始めた。
「わがんねなっし」と頭をかきながら、それでも続けた。
いちばん苦手な英語は近所の中学生に教えてもらったのだ。

筆記試験に情実は効かないとは思ったが、運輸長や局の人事課にしょうちゃんのことを、よろしくと電話はした。
しないではおれなかった。

みんなで駅の草むしりをしていると、駅で留守番をしているAさんが、「駅さ~ん!局から電話!」と叫ぶ。
みんな、駅長さん、ではなくて駅さんと呼ぶのだ。
走って電話を取ると、Sさんが合格したとの知らせだ。
すぐに取って返して「お~い、しょうちゃん合格だぞ~」と怒鳴ると、みんなわっと大騒ぎ、私は胸が熱くなった。

駅長官舎で、しょうちゃんを囲んで大いに飲んで騒いだ。
しょうちゃん、元気かな。

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