当時の国鉄は、「ないものは葬儀屋くらい」というくらい、なんでもやっていた。
○○コを浴びながら真夏の線路を歩く保線区、車内放送で途中駅の名前の読み方を間違えた車掌区、被服工場、切符の印刷場、、現場見習は、そういったすべてを網羅的に見て歩く。
鉄道公安室で公安官の制服制帽に身を固め「敬礼!」をし拳銃を実射したことなどもある(なかなか当たらないものだ)。
いわゆる現場だけでなく、管理局の人事課や旅客課などにも何か月か勤務した。
旅客課では宣伝係に配置されて、会津線・塔のへつりへの宣伝パンフを作ったり、旅客課だよりみたいなものの編集をした。
私の考えたキャッチコピー(子供のころ、母が読んでいた「暮らしの手帖」の見出しの作り方に影響されていた)が、仙台駅の改札口上の壁に大きく張り出されたときはいささか嬉しかった。
宣伝だけでなく輸送や制度の島の仕事も少しづつ見せてもらって、夜の当直指令もやった。
管理局のなかで、部長、課長、係長という組織の動き方を観察したり、親しい人もできて一緒に飲みに行くことも、少なからずあったりすると、じょじょに組織のなかの人間関係も見えてくる。
いわゆる「出世ないしは保身大事」な人と、悪く言えば要領がよくない「ロマンテイストないし正義漢」たち。
課長は私の5、6年先輩の青年エリート、しかも国鉄大幹部の息子でお坊ちゃまタイプ、年上ばかりの部下たちの方が経験豊富でもあり、課長のやることに、内心反発を感じている人もいた。
しかし、その反発は、課長その人には向けられず、課長に迎合するゴマすり人間に向けられた。
といっても、当時の私が、どちらかというと反発組の人と付き合っていたから、ものの見方にはバイアスがかかっていたかもしれない。
話は変わるが、当時の私の経済状態。
手取りで、二万円弱だったと思うが、その半分近くが、管理局と寮の間にあった、つまり毎日通るガード下の居酒屋のツケで消えた。
母と同い年のママのキップがよく、国鉄職員(現場の管理者や寮の機関助士などの友人)、八百屋、古物商などが集って、飲み、語り、やがて民謡から文部省唱歌まで合唱する店。
その20年後に、店の常連が、立派なお座敷でママを囲んで同窓会をやったほどの店だった。
大いに飲んだ月も、今月はあまりこれなかったと思える月でも、だいたい一万円前後にしてくれた。
いつも金のないことを知っているママは、「明日から飯坂温泉の輸送会議に行ってくる」というと、黙って千円二千円と貸してくれた。
給料日に、居酒屋のツケを払って寮費を払うとほとんど残らない。
すぐに寮生の先輩に借金の申し込みに行って呆れられた。
辻褄はボーナスや旅費が出たときに何とかしていたのだが、恒例の見習い納めの東北管内研修旅行(北海道まで足を延ばす一週間くらい)のときには、往生した。
必要な旅費・小遣いの蓄えなどないので、寮の同期生に借金を頼むと、7人全員が自分も金がないという。
それじゃあ、とお目付け役の人事課長に給料の前払いを頼もうと思ったが、年次の近い課長が、なんだか取っつきにくくて、思い切って局長に直訴した。
当時の国鉄では管理局長は、神様みたいにあがめられていて、なおかつそのときの局長は、中学卒で上級試験資格をクリアし、志免炭鉱の閉山を成し遂げた武勇を買われて仙台の局長に抜擢された人、私の先輩課長や部長は敬遠気味の人だった。
だが、私は彼が私の母校卒業であることを知ってから、休みの日に電話して単身赴任でいる官舎に押しかけたり仙台の町を飲み歩いたり(民謡酒場など)する仲だった。
こういうわけで、同期の分も含めて一人一万で、八万円を(局長の指示で総務部長→人事課長から嫌味とともに)借りて、意気揚々と寮に帰ってみんなに報告したら、ななななんと、「よけいなことをしてくれた、お前に貸す金はなくても自分の金はある。幹部に恥をかいた、どうしてくれる」というではないか。
泣く泣く、七万円を返しに行った。
あのときは、それでも足りないと思ったのか、返金のためだったか、西宮にいる祖父のところまで借金に行ったのだ。
母にそういう窮状を知られたくなかったので、内緒だといったのにチクられて後で母から、私に心配させまいとして、可哀そうにと言われて、傷ついたなあ。
○○コを浴びながら真夏の線路を歩く保線区、車内放送で途中駅の名前の読み方を間違えた車掌区、被服工場、切符の印刷場、、現場見習は、そういったすべてを網羅的に見て歩く。
鉄道公安室で公安官の制服制帽に身を固め「敬礼!」をし拳銃を実射したことなどもある(なかなか当たらないものだ)。
いわゆる現場だけでなく、管理局の人事課や旅客課などにも何か月か勤務した。
旅客課では宣伝係に配置されて、会津線・塔のへつりへの宣伝パンフを作ったり、旅客課だよりみたいなものの編集をした。
私の考えたキャッチコピー(子供のころ、母が読んでいた「暮らしの手帖」の見出しの作り方に影響されていた)が、仙台駅の改札口上の壁に大きく張り出されたときはいささか嬉しかった。
宣伝だけでなく輸送や制度の島の仕事も少しづつ見せてもらって、夜の当直指令もやった。
管理局のなかで、部長、課長、係長という組織の動き方を観察したり、親しい人もできて一緒に飲みに行くことも、少なからずあったりすると、じょじょに組織のなかの人間関係も見えてくる。
いわゆる「出世ないしは保身大事」な人と、悪く言えば要領がよくない「ロマンテイストないし正義漢」たち。
課長は私の5、6年先輩の青年エリート、しかも国鉄大幹部の息子でお坊ちゃまタイプ、年上ばかりの部下たちの方が経験豊富でもあり、課長のやることに、内心反発を感じている人もいた。
しかし、その反発は、課長その人には向けられず、課長に迎合するゴマすり人間に向けられた。
といっても、当時の私が、どちらかというと反発組の人と付き合っていたから、ものの見方にはバイアスがかかっていたかもしれない。
話は変わるが、当時の私の経済状態。
手取りで、二万円弱だったと思うが、その半分近くが、管理局と寮の間にあった、つまり毎日通るガード下の居酒屋のツケで消えた。
母と同い年のママのキップがよく、国鉄職員(現場の管理者や寮の機関助士などの友人)、八百屋、古物商などが集って、飲み、語り、やがて民謡から文部省唱歌まで合唱する店。
その20年後に、店の常連が、立派なお座敷でママを囲んで同窓会をやったほどの店だった。
大いに飲んだ月も、今月はあまりこれなかったと思える月でも、だいたい一万円前後にしてくれた。
いつも金のないことを知っているママは、「明日から飯坂温泉の輸送会議に行ってくる」というと、黙って千円二千円と貸してくれた。
給料日に、居酒屋のツケを払って寮費を払うとほとんど残らない。
すぐに寮生の先輩に借金の申し込みに行って呆れられた。
辻褄はボーナスや旅費が出たときに何とかしていたのだが、恒例の見習い納めの東北管内研修旅行(北海道まで足を延ばす一週間くらい)のときには、往生した。
必要な旅費・小遣いの蓄えなどないので、寮の同期生に借金を頼むと、7人全員が自分も金がないという。
それじゃあ、とお目付け役の人事課長に給料の前払いを頼もうと思ったが、年次の近い課長が、なんだか取っつきにくくて、思い切って局長に直訴した。
当時の国鉄では管理局長は、神様みたいにあがめられていて、なおかつそのときの局長は、中学卒で上級試験資格をクリアし、志免炭鉱の閉山を成し遂げた武勇を買われて仙台の局長に抜擢された人、私の先輩課長や部長は敬遠気味の人だった。
だが、私は彼が私の母校卒業であることを知ってから、休みの日に電話して単身赴任でいる官舎に押しかけたり仙台の町を飲み歩いたり(民謡酒場など)する仲だった。
こういうわけで、同期の分も含めて一人一万で、八万円を(局長の指示で総務部長→人事課長から嫌味とともに)借りて、意気揚々と寮に帰ってみんなに報告したら、ななななんと、「よけいなことをしてくれた、お前に貸す金はなくても自分の金はある。幹部に恥をかいた、どうしてくれる」というではないか。
泣く泣く、七万円を返しに行った。
あのときは、それでも足りないと思ったのか、返金のためだったか、西宮にいる祖父のところまで借金に行ったのだ。
母にそういう窮状を知られたくなかったので、内緒だといったのにチクられて後で母から、私に心配させまいとして、可哀そうにと言われて、傷ついたなあ。