鉄道会館をやめて日本ホテルの常勤監査役になった。
グループ会社の新任監査役、30人もいただろうか、合宿して監査役のイロハの研修を受けた。
みずほ監査法人から来た講師の話が面白くて、もう少し前に聞いていれば監査の勉強を本気でやるという選択肢もあったかと思った。
とはいえ、私は役人にならなかったのは、彼らの仕事を一種虚業のように感じたからもあって、やはり実業が好きなのだ。

私が赴任した日本ホテルは、池袋のメトロポリタンホテル、飯田橋のエドモントホテル、東京のステーションホテルの三ホテルを統括する親会社のような位置づけであった。
しかし、それが私が着任する直前の「再編成」で、日本ホテルとメトロポリタンホテルが同一法人のようなへんてこな形になっていた。
日本ホテルの社長とメトロポリタンの総支配人の関係があいまいで、あまりにも変な形だったので具体的な形を思い出そうにも思い出せないのだが、その形ではそれぞれの責任を誰がどこまで負うのかが明確でないのが最大の問題だった。

その頃、房総半島に大きな地震があって、私はたまたま内房線佐貫町にいたのだが、そこから日本ホテルの当直に電話してお客様の状況やエレベーターに異常がないかなどを尋ねたが明確な返答がない。
あとで訊くと日本ホテルの社長の自宅(休日だった)に、地震の情報がはいらなかったという。
これは、へんてこな体制のせいで責任体制が不明確だったために起きたことだ。

そのほか、業務運営についても不都合が多い。
日本ホテルの社長や事業創造本部から送り込まれた専務に、その問題点を再三指摘して、早く体制をスッキリしたものに是正せよ、と言ったが、一向に動く気配がなかった。
その専務自身が、へんてこな体制を作った当事者だったからでもあるが、およそ組織運営にともなう責任の所在を明らかにするということの重要性を理解できないのには驚きもした。

しょうがないので、JR東日本本社の常勤監査役が主宰するグループ会社監査役会議(月一度)の席上で、なんどか問題提起をした。
やがて佐々木副社長から「昼めしをご馳走するからきてくれ」というので、出かけていくと、小会議室で食堂から取り寄せた弁当を食わせて、ホテルの組織の問題について聞かせてくれというのだった。
図に書いて、縷々説明したら、ようやく理解してくれて組織改正をした。

なんでJR東日本のエライ人たちは、あんな卑劣なことをしたのだろうか。
なにか特別な状況変化があったなら、せめて私くらいには知らせてくれても良いと思う。
私は、かなり早い段階から、鉄道会館にオフィスビル事業をやらせるつもりはなかったのではないかと推測する。

準備だけは鉄道会館にやらせて、然るべき段階で新会社を立ち上げ、そちらに仕事を移行する。
それまでは、なにも知らせず、やるだけやらせておこう。
鉄道会館の協力がなければ、いろんな面で準備がしにくかったし、そうかといって、準備ができたら、その成果は取り上げるとあからさまにしたら、私を含めて鉄道会館がヘソを曲げて面倒だ。
そんなことではなかったか。

私がJR東日本本社の関連事業本部長をしていたときに、津田沼のホテルメッツの経営を、メッツの創業者である長谷川さんにやってもらうことにしていた(社長以下の同意を得て)のを、住田会長の意向でキャンセルした時に、私は辞めることにした。
特段の事情変更がないのに、そういう方針変更をしていては、関連事業本部長なんてやってられないと思ったのだ。

本社としての方針が変わったなら変わったなりに、その影響をまともに受ける私に、率直に説明して納得までは出来なくても、理解を求めるという努力がなぜできなかったのか。
信頼感の欠如が底流にあると思った。
国鉄であろうが民営化されようが、本社と部下の間に信頼関係が亡くなったら、安全もお客様第一もまっとうできなくなる。

民営化とは、民間会社になることで、民間会社ではトップの意向が全てに優先する。
そもそも平社員が、社長室に一人で飛び込んで議論するなんてとんでもないことで、事業の説明ですら担当常務以上でなければ畏れ多いことだという銀行や商社からの出向者がいた。

田口さん、真鍋さん、吉井さん、川野さん、井手さん、石井さん、橋元さん、、多くの先輩たちは、私の乱暴な物言いを許し、真っ向から議論を受けてくれた。
それが国鉄の美風だと思っていたが、民営化されたJRではそういう振る舞いは容認できないのだ。
ある先輩が「飯を食わせてもらっている会社の悪口をいうべきではない。言いたいなら辞めてからいえ」と親切に忠告してくれた。
会社を大事だと思えばこそ、批判もするのが私たち大学出の使命ではないのか。
大学出の特権階級が国鉄を悪くしたから、JRでは大学出のなかに差をつけず平等に扱うことになった。
といいながら、実際には見る人が見ればエリート候補は背番号をつけられて特別養成されていた。
国鉄との違いは、彼らにエリートとしての使命感が要求されないこと、与えられた命令を忠実に遂行する能力において秀でていることだけが要求されているように見えた。

鉄道会館を去る直前に、「社長表彰はダメだけど」事業創造本部長表彰で我慢してくれ、と云ってきた。
私のブースカ文句垂れの一部に答えて頭をなぜるようなつもりが見え見えで、猛烈に腹が立ったが、社員たちのことを慮って受けることにした。
夏目副社長が来社して、苦虫を嚙み潰したような顔をして、笑顔の私に賞状を授与した。


無我夢中になっていくつものプロジェクトを進めている私と鉄道会館の社員に雷撃が見舞った。
その内容は、つぎの手紙を読むことで判ると思うので、そのまま転記する。
私の手元に残っていた、前任の社長に出した手紙のコピーである。

拝啓 (中略)前からご心配頂き「短気を起こして辞めるなよ」とおっしゃっていただだいたのにもかかわらずこのたび辞めることになりました。
 それ以上にご報告申し上げなけばならないのは、鉄道会館が思いもかけない姿にならざるをえなくなったということでございます。八重洲再開発プロジェクトに伴い本館を取り壊し新しいビルを南北と日本橋口に三っつ建てる、そのプロジェクトのためにJR東海の土地の上の名店街を東海に渡す、そのかわり鉄道会館は新しいオフィスビルの管理会社としてJRグループでオフィスビル中核会社になる。という枠組みでこの数年間社員を率い心血を注いでまいりました。日本橋ビル設立準備室を作り人材養成からリーシング・工事監理など着々と進めてきました。ところが何の事前相談もなく、本年(2005)二月十五日、突然JR東日本事業創造本部から三人の部長が来社してJR本社の方針が変わり『鉄道会館はオフィスビルを担当せず新たに設立した会社にやらせる。本館部分(大丸)は別にJR直轄とする。鉄道会館は残ったSC部分のみの会社とする。これらを本年十月に実行する』といってきました。
 大塚社長との間で正式に『鉄道会館が八重洲再開発プロジェクトに協力することに対し、JRとしては会館の失われた資産や事業機会の補償と代替機会を提供する』という覚書(注・鉄道会館の株主対策の意味もあって締結してもらった)があって、その意味はオフィスビルを会館が担当することというのが周知の事実でした。鉄道会館がオフィス中核会社になることは、JRグループ社長会でも公表されていたのです。それがあったからこそ、私は社員を励まし予定通り東海分離やプロジェクトの進捗を問題なく成し遂げました。それだけでなく八重洲北部に新しい飲食ゾーン「キッチンストリート」「黒塀横丁」も創りあげました。既存店との移転・退店交渉に自ら当たるなど疲労困憊しながら”明日の東京駅”のために頑張ってきました。然るに夏目副社長によれば「覚書は完全子会社化された今となっては反古同然」ということで、[JRの方針変更]ということ以外に納得のいく説明もなしに予定のスケジュールを必達目標として受け入れることを迫りました。私としてはJRの方針であるからには従わざるを得ないと思いました。しかし、今までの方針で諸準備を進めている中で、突然新年度計画も出来上がりスタート直前に全く違った方向で今年中に三つの会社に分割しろ、というのはいかにも無理がある。社員感情のことも考えなければならない。従って、日本橋ビルが完成する二〇〇七年までに準備をして三分割するというように時間をください、と申し上げました。その間に社員たちの将来も個別に考えると同時に小さくなった鉄道会館がやっていけるのかどうか、JRが代替事業機会なるものをどれだけ具体的に用意していただけるかも詰めていきたい、ということです。
 しかし、JRという大企業にとっては鉄道会館の個別の事情などを考慮していては大きな計画が進められないということでしょうか、JR計画の線で鋭意詰めろ、の一本やりでした。
 大塚社長にも直接会ったりほかの役員にも意のあるところを申し上げましたが交渉は三人の部長が当たり、彼らとは話せば話すほど「言葉の通じない」もどかしさ(はっきり言って小僧の使いですから敢えて通じない。ああいえばこういう、のやり方に徹していたのでしょうが)を感じるばかりでした。新井常務が途中から登場して「今年中には会社は作らない。もう間に合わない」というからほっとしていると夏目副社長は「予定通りやってくれ」と言うような状態でした。
 身も心もボロボロになって鉄道会館のために、ひいてはJRのために八年間、頑張ってきたのに一言の相談もなく足元をすくうような目にあわされた個人的な悲しさは言葉に言い表せないものがあります。しかし、一番心配なのは社員のことです。JRが社員に対してある程度納得できる対策を打ち出さなかったら死んでも死にきれない。そういう気持ちも含めて我が身は社長から引いて、嘱託で、事後の処理のお手伝いをしたいと申し上げました。保身のためにいろいろ云っていると思われたくなかったのと、それほどまでに親会社から信を失った者が社長に居続けることは社員にも害になると思いました。八年間頑張ってきて気力体力の限界に来ていましたから、そういう状態でこれほどの危機を社長として乗り切る自信もありませんでした。
 過日、大塚社長に呼ばれて某会社の常勤監査役になれ、と内命されました。というわけで伝統の鉄道会館のあり方も大きく変わります。(中略)先輩たちが守ってきた会社を私の代でこういうことにしてしまったことをお詫びします。折角頑張れと励ましていただいたのにも関わらず、後の始末もせずに辞めることもお詫び申し上げます。本来ならおめもじの上、申し上げるべきところ書中での失礼お許しください。  
 ご健勝をお祈り申し上げます。                 敬具

今読むと、大の大人がなんと感情的になったことか、とも思う。
しかし、それほどショックを受け、怒り心頭、悲しくもあったのだ。

それから六月の株主総会まで、残された社員たちの仕事が将来とも確保されるように、JRに迫って、数年後に東京駅構内などの新開発にあてるという前提で会社の収支見込みを作るまでに至った。
この計画ができなかったら、化けてでるぞ、と半ば本気で脅しもした。
鉄道会館の仕事をしたくて入社してきて、いっしょにコンシェルジュだのなんだのを頑張ってきた女子社員を、そのときはこうなるとは思わず、日本橋ビル設立準備室に配属したら、けっきょくそちらに転籍になったことも申し訳ないことであった。

その後、東京駅グランスタなどを鉄道会館が担当することになって、化けてでなくで済んだが、鉄道人生の最期に心身を捧げてきた鉄道から背信行為で報われるのは、ほんとに残念なことだった。

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