国鉄時代に共同出資した日本テレコムが、紆余曲折をへてソフトバンクの傘下に入ることになり、所有している株式をすべて売却せよとJR東日本から指示がきた。
巨額の売却益が生じるが、ほっておくと税金に持っていかれる。

考えた末に、90周年を迎える東京駅を祝い、併せて鉄道会館の、黒塀横丁、キッチンストリート、ギーニョギーニョ、ルビーホール、日本橋口ビル、コンシェルジュ、ブレイク、アージュ、きれいなトイレなどの事業を単なる広告ではなく東京駅をとりまく文化として周知させるキャンペーンを行うことにした。

ジェイアール東日本企画(私が作った!)と相談して、2004年10月1日から12月14日までの期間、「I LIKE TOKYO STATION」を行ったのだ。

「I LIKE TOKYO STATION」と題した写真集、A4カラーで60頁に及ぶ東京駅賛歌、これをつくるために、私は毎朝7時からJ企のスタッフと打ち合わせをした。
辰野金吾がどんな思いで東京駅を作ったか、東京駅はどんな駅でなければならないか、その思いのなかで鉄道会館はどんなことをしているか、、。
写真をすべて(駅長の写真を除いて)さかさまにするという、若いクリエーターの提案を採用した。
新しくなればいいってもんじゃないんだ。
かっこよくなればいいってもんじゃないんだ。
大好きになってもらえるような気持の
入った駅じゃないとだめなんだ。
そういう駅なんだ東京駅は。
これが一ページの冒頭にあって、最後のページは、次のようになっていた。
日本一お客様第一の
駅じゃないとね。
東京駅ですから。
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八重洲再開発工事が進捗するにしたがい、東京駅の八重洲北口には目隠しのフエンスが建てまわされ、お客様は迷路のような通路を歩かされた。
そのために、やっと開業した黒塀横丁&キッチンストリートがどこにあるのか分からない、せっかく来たのに寄ることができなかった、というクレームがたびたび寄せられた。
テナントのオーナーたちからも一人ならず、なんとかならないかという叱責。
客足が落ちたから怒るのも当然だ。

大きなフエンスだから、「丸の内側」などの業務案内の横に黒塀横丁などを→で表示してくれればいいのに、商業施設を案内するわけにはいかないとJRはいうのだ。
その工事は鉄道会館の多大な犠牲と協力の上で行われていて、そのために鉄道会館の施設のありかが分からなくなったのだから、通常の商業施設の案内とは違うと思うのだが、ガンとして聞き入れてくれなかった。

疲労もあってかなり感情的になってJR東日本とのやり取りをしたことを覚えている。
YさんのあとのM総務部長が「ゴルフに行きませんか」と誘ってくれたり、子会社の社長が「北海道の支店を訪ねるのに一緒に行きませんか」と誘ってくれた。
ゴルフは断ったけれど、北海道には出かけて、湖のほとりにある温泉につかったりして、いささかストレスを解消することができた。

日本橋口のビルの起工式も行われて、私も施主として挨拶をした。
そのとき不審に思ったのは、工事を発注したゼネコンの役員たちとの名刺交換が、その日起工式の会場が初めてだったことだ。

東京駅を設計した辰野金吾は、工事中毎日のように部下に大きな物差しを持たせて現場に行き、物差しを当てさせては「それでいい」とか「ここはこうだな」とやりなおさせたという話を読んで、それを起工式の挨拶で披露し「○○建設の皆さんもぜひ辰野金吾に負けないように立派なビルを建ててください」と言った。
JR東日本の松田社長もふくめて居並ぶ人たちが苦虫を嚙み潰したような沈黙で答えた。
なんか変だった。

JR東日本の八重洲再開発とは、鉄道会館本館を取り壊し、新しいビルを南北と日本橋口に建てるというものだった。
そのためにJR東海の土地の上の東京駅名店街を無償でJR東海に譲渡するということで、私たちは、一緒に名店会の改革を進めた役員たちにその旨を知らせ、鉄道会館とは袂を分かつことを納得してもらった。
そのほかに東京温泉などは解体されるので、退店をお願いした。
本館にあった大丸にも新しくできる北の高層ビルに移転してもらうので、そのための協議も進める。

どれも鉄道会館にとっては大きな収益源がなくなる話であるけれど、大きな目でみたら東京駅の価値を高めるととともに親会社・JR東日本のためになることだから、社内にプロジェクトチームを設置して、早朝会議を行ったりして、全力投球して対処し、すべての難題をクリアしてきた。

一方で、このままでは鉄道会館の収入が減って黒字を維持し続ける見通しが薄いので、日本橋口にできる高層ビルはホテルとオフィス&
コンファレンスビルとし、その管理会社に鉄道会館をあてることとなった。
それまでも、イシマビルなど3棟、延べ床22000㎡ほどの不動産賃貸事業を行いオフィス事業部で管理していたが、こんどは桁が違う高層ビル、しかも東京駅の日本橋側に新幹線と直結するビルの管理にあたるのだ。

勇躍、日本橋ビル設立準備室を設置、人材養成、リーシング、工事管理に当たることとした。
JRの原案にはなかったビルから地下で永代通りの地下にでられるような通路を作ることにしたり、従来のようなゼネコンに一括発注しない工事管理を模索した。
ビルの特色を出すために、食にかかわる研究機関や企業を集められないかと、女子栄養大学の副学長をしていた先輩に相談したこともある。
若い社員たちとリーシングにつかうビデオを作っているときは希望が湧いてきた。

日本橋口ビルへの通路にもあたるキッチンストリートや黒塀横丁をいいものにしようという決意はますます高まった。

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