JR東日本の八重洲再開発とは、鉄道会館本館を取り壊し、新しいビルを南北と日本橋口に建てるというものだった。
そのためにJR東海の土地の上の東京駅名店街を無償でJR東海に譲渡するということで、私たちは、一緒に名店会の改革を進めた役員たちにその旨を知らせ、鉄道会館とは袂を分かつことを納得してもらった。
そのほかに東京温泉などは解体されるので、退店をお願いした。
本館にあった大丸にも新しくできる北の高層ビルに移転してもらうので、そのための協議も進める。

どれも鉄道会館にとっては大きな収益源がなくなる話であるけれど、大きな目でみたら東京駅の価値を高めるととともに親会社・JR東日本のためになることだから、社内にプロジェクトチームを設置して、早朝会議を行ったりして、全力投球して対処し、すべての難題をクリアしてきた。

一方で、このままでは鉄道会館の収入が減って黒字を維持し続ける見通しが薄いので、日本橋口にできる高層ビルはホテルとオフィス&
コンファレンスビルとし、その管理会社に鉄道会館をあてることとなった。
それまでも、イシマビルなど3棟、延べ床22000㎡ほどの不動産賃貸事業を行いオフィス事業部で管理していたが、こんどは桁が違う高層ビル、しかも東京駅の日本橋側に新幹線と直結するビルの管理にあたるのだ。

勇躍、日本橋ビル設立準備室を設置、人材養成、リーシング、工事管理に当たることとした。
JRの原案にはなかったビルから地下で永代通りの地下にでられるような通路を作ることにしたり、従来のようなゼネコンに一括発注しない工事管理を模索した。
ビルの特色を出すために、食にかかわる研究機関や企業を集められないかと、女子栄養大学の副学長をしていた先輩に相談したこともある。
若い社員たちとリーシングにつかうビデオを作っているときは希望が湧いてきた。

日本橋口ビルへの通路にもあたるキッチンストリートや黒塀横丁をいいものにしようという決意はますます高まった。

悪戦苦闘ではあったが、じつは楽しかった。
やればやったなりに結果が目に見える。
いい店ができて、その前に嬉しそうに並んでいるOLなどを見ると、頑張ってほんとに良かったと思う。
社員たち、店のスタッフ、子会社の人たちの笑顔が増えて、積極的にものをいうようになったのが何よりも嬉しかった。
テレビや雑誌などで取り上げられることも増えて、取材に応じる社員たちも、以前より自信に満ちているように見えた。

私が講演会の講師に呼ばれることも増えてきた。
日本ショッピングセンター協会全国大会、経済倶楽部、郵政会社幹部研修、JR北海道駅ビル協議会、千葉県の福祉司総会、、。
ほとんどが「茹で蛙生き残り大作戦」のような題目で、鉄道会館がどう変わったかを具体例を中心に話すもので、たとえば経済倶楽部(東洋経済主催)で私の話を聞いた中に郵政の役員がおられて、その方のお声がかりで、郵政本社の講演をしたように、手ごたえのある話ができたと思う。
テナントの経営者からよばれてその本社で話をしたこともある。

名店街の売り上げも向上し、私としてはいちおうの成果を上げることができたと思う。

ところがJR東日本本社は、まいとし行う業績優秀な会社の表彰に鉄道会館を選ぶことはなかった。
同じ会社がなんども表彰され、どうみても大したことをやったと(鉄道会館に比べれば)は思えないような会社がどんどん表彰されても鉄道会館の名前が呼ばれることはなかった。
私自身は表彰なんてどうでもいいことだが(賞与や報酬の査定には影響するけれど)、あんなに頑張って成果をあげている社員たちのために、いちどくらい表彰状をくれてもいいじゃないか。
取締役会に非常勤役員として出席しているJR東日本事業創造本部の部長にそういうと、「鉄道会館が社長表彰されることは絶対にないでしょう」と断定するのだ。
その部長が上申しない限り社長表彰の手続きは進まないのに。
毎月開く取締役会で前月の奮闘の模様やテレビ報道の録画をみせると「すばらしい!」と褒めながらだ。

どうして?訳は聞かなかった、聞くだけヤボというものだ。
表彰の問題だけでなく、出向人事のことやいろいろな面で、JR本社が私に対して温かい支援を送ってくれているとは、考えられないような8年間だった。
それは、なにも鉄道会館に来てから始まったのではなく、国鉄からJRになって以来、ずっと私を胡散臭いもののように見て、冷ややかに接する後輩エリートたちだった。
葛西さんなどの改革三人組と血判状で結ばれたエリートたちが、葛西さんから「明日からはいないものとして考える」とまで言われた私を優しい目で見るはずはない。

そういうものがあたかもないかのように、猪突猛進してきたJR東日本における私だった。 彼らを宴席やゴルフに誘うこともしなかった。
本社向きではない性格・能力のせいもあるが、そういう「空気圧」が本社における私をいっそう無力化させた面もあった。

そうであったから、彼らと無縁の部外から認められて講演を依頼されるのは嬉しかった。
嬉しがって講演をするから、なおのこと、、ということはあったけれど。

当たり前のことだが、商店街はそれなりの店をきれいに並べて開店して、それで終わりではない。
よくここまでたどり着いたという完成の喜びも、その一日だけで、すぐにメンテナンスの日々が始まる。
設備の不具合はないか、ゴミ出しはうまく行っているか、トイレはいつもきれいか、有料トイレについてトラブルはないか、そして各店の料理はどうか、接客に疎漏はないか、スタッフたちの志気はどうか、、五感も六感も研ぎ澄ませて、毎日なんども巡回しなければならない。

部下任せではだめ、自分自身が見て聞いて嗅いで触って食って話して、確かめるのだ。
いろんな問題を最終責任者の目で見て、その解決方法を考え、予想外の予算確保など面白くないことについて必要な決断もしなければならない。

繫乃井という炭火焼の店は、東京RB商事のスタッフを新橋の鶏繁に預けて2年半も訓練した人たちで運営させた。
11時まで営業というのをウリにしたのに、9時過ぎにオーダーストップなどということがしょっちゅうで、行ってくれた友人から文句を言われ、私が行ったときにもそうだった。

訳を訊いてみると、炭火焼はオーダーが入ってから焼くので出すまでに30~40分かかる。
新鮮な肉を毎日仕入れるので、足りなくなることもある。
ガスと異なって炭火の始末に時間がかかる。
11時を過ぎるとスタッフたちの帰宅の足の問題が出てくる。
二年半かけて、まともに育った「焼き手」は、たった一人で、それがようやく1.5人になった。
冬でも汗びっしょりになって、遠赤外線が目や顔に熱くて大変なのだ、彼らを大事にしなければ、どこかに取られてはならない。
そんなことは焼き鳥屋の常識だろうが、素人の私は彼らから直接聞いて、はじめて「何をやってるんだ!」と怒る気持ちが、「そうか、11時ギリギリまで焼き鳥を出せなどと無茶なことをいって、すまなかったなあ」と謝る気持ちになるのだ。

鉄道会館に赴任した当座、昼飯を食った店の不都合を、その場で叱り、その上で役員にも伝えて会社として是正するように言ったことがある。
すると、その役員が「社長(私)の写真をレジに貼ってあるのだが、それをもっと大きくする」というのだ。
要するに、私さえ文句を言わなければいい、というのが、それまでの社風だったのだ。

そういう上役大事のベクトルをお客様第一へ変えるためには、作って終わりではなく、日々現場に行って、現場の問題を社長の問題でもあるとして、いっしょに対応していくことが必須なのだ。

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