悪戦苦闘ではあったが、じつは楽しかった。
やればやったなりに結果が目に見える。
いい店ができて、その前に嬉しそうに並んでいるOLなどを見ると、頑張ってほんとに良かったと思う。
社員たち、店のスタッフ、子会社の人たちの笑顔が増えて、積極的にものをいうようになったのが何よりも嬉しかった。
テレビや雑誌などで取り上げられることも増えて、取材に応じる社員たちも、以前より自信に満ちているように見えた。

私が講演会の講師に呼ばれることも増えてきた。
日本ショッピングセンター協会全国大会、経済倶楽部、郵政会社幹部研修、JR北海道駅ビル協議会、千葉県の福祉司総会、、。
ほとんどが「茹で蛙生き残り大作戦」のような題目で、鉄道会館がどう変わったかを具体例を中心に話すもので、たとえば経済倶楽部(東洋経済主催)で私の話を聞いた中に郵政の役員がおられて、その方のお声がかりで、郵政本社の講演をしたように、手ごたえのある話ができたと思う。
テナントの経営者からよばれてその本社で話をしたこともある。

名店街の売り上げも向上し、私としてはいちおうの成果を上げることができたと思う。

ところがJR東日本本社は、まいとし行う業績優秀な会社の表彰に鉄道会館を選ぶことはなかった。
同じ会社がなんども表彰され、どうみても大したことをやったと(鉄道会館に比べれば)は思えないような会社がどんどん表彰されても鉄道会館の名前が呼ばれることはなかった。
私自身は表彰なんてどうでもいいことだが(賞与や報酬の査定には影響するけれど)、あんなに頑張って成果をあげている社員たちのために、いちどくらい表彰状をくれてもいいじゃないか。
取締役会に非常勤役員として出席しているJR東日本事業創造本部の部長にそういうと、「鉄道会館が社長表彰されることは絶対にないでしょう」と断定するのだ。
その部長が上申しない限り社長表彰の手続きは進まないのに。
毎月開く取締役会で前月の奮闘の模様やテレビ報道の録画をみせると「すばらしい!」と褒めながらだ。

どうして?訳は聞かなかった、聞くだけヤボというものだ。
表彰の問題だけでなく、出向人事のことやいろいろな面で、JR本社が私に対して温かい支援を送ってくれているとは、考えられないような8年間だった。
それは、なにも鉄道会館に来てから始まったのではなく、国鉄からJRになって以来、ずっと私を胡散臭いもののように見て、冷ややかに接する後輩エリートたちだった。
葛西さんなどの改革三人組と血判状で結ばれたエリートたちが、葛西さんから「明日からはいないものとして考える」とまで言われた私を優しい目で見るはずはない。

そういうものがあたかもないかのように、猪突猛進してきたJR東日本における私だった。 彼らを宴席やゴルフに誘うこともしなかった。
本社向きではない性格・能力のせいもあるが、そういう「空気圧」が本社における私をいっそう無力化させた面もあった。

そうであったから、彼らと無縁の部外から認められて講演を依頼されるのは嬉しかった。
嬉しがって講演をするから、なおのこと、、ということはあったけれど。

当たり前のことだが、商店街はそれなりの店をきれいに並べて開店して、それで終わりではない。
よくここまでたどり着いたという完成の喜びも、その一日だけで、すぐにメンテナンスの日々が始まる。
設備の不具合はないか、ゴミ出しはうまく行っているか、トイレはいつもきれいか、有料トイレについてトラブルはないか、そして各店の料理はどうか、接客に疎漏はないか、スタッフたちの志気はどうか、、五感も六感も研ぎ澄ませて、毎日なんども巡回しなければならない。

部下任せではだめ、自分自身が見て聞いて嗅いで触って食って話して、確かめるのだ。
いろんな問題を最終責任者の目で見て、その解決方法を考え、予想外の予算確保など面白くないことについて必要な決断もしなければならない。

繫乃井という炭火焼の店は、東京RB商事のスタッフを新橋の鶏繁に預けて2年半も訓練した人たちで運営させた。
11時まで営業というのをウリにしたのに、9時過ぎにオーダーストップなどということがしょっちゅうで、行ってくれた友人から文句を言われ、私が行ったときにもそうだった。

訳を訊いてみると、炭火焼はオーダーが入ってから焼くので出すまでに30~40分かかる。
新鮮な肉を毎日仕入れるので、足りなくなることもある。
ガスと異なって炭火の始末に時間がかかる。
11時を過ぎるとスタッフたちの帰宅の足の問題が出てくる。
二年半かけて、まともに育った「焼き手」は、たった一人で、それがようやく1.5人になった。
冬でも汗びっしょりになって、遠赤外線が目や顔に熱くて大変なのだ、彼らを大事にしなければ、どこかに取られてはならない。
そんなことは焼き鳥屋の常識だろうが、素人の私は彼らから直接聞いて、はじめて「何をやってるんだ!」と怒る気持ちが、「そうか、11時ギリギリまで焼き鳥を出せなどと無茶なことをいって、すまなかったなあ」と謝る気持ちになるのだ。

鉄道会館に赴任した当座、昼飯を食った店の不都合を、その場で叱り、その上で役員にも伝えて会社として是正するように言ったことがある。
すると、その役員が「社長(私)の写真をレジに貼ってあるのだが、それをもっと大きくする」というのだ。
要するに、私さえ文句を言わなければいい、というのが、それまでの社風だったのだ。

そういう上役大事のベクトルをお客様第一へ変えるためには、作って終わりではなく、日々現場に行って、現場の問題を社長の問題でもあるとして、いっしょに対応していくことが必須なのだ。

いつも先に出勤していておはようと言ってくれた人がいない朝。なんとも言えない、足が地に着かないような気分だ。
私が言い出したり決断せずに7年前の会社の事業だけを守っていれば、若い人たちやほとんどの新しい人はいらなかったと思う。多くの人たちの生活や人生を結果的に変えてきたのだ。それだけの価値のある決断だったのか?
いつも悩んできた。弱気にもなった。
そういう時に笑顔で「いいじゃないですか。やりましょうよ」と励ましてくれた人が今病床にいるのだ。
神様!お願いだ。治してください。
2004年3月8日の全社員宛てメール「ホンの戯言」の記事だ。
この前日、総務部長のYさんは、私と営業部長と秘書の四人で、JR東日本主催の若手社員意見発表会で表彰された女性社員と春の異動で課長に抜擢する男を祝福して名店街の豚シャブの店で飲んでいた。

「Nちゃん、おめでとう!社長がどんなにあなたに期待しているか、わかるか」などと上機嫌で飲んでいて、トイレに立った帰りに通路で倒れて人事不省になった。
一緒に救急車で病院に行き、急遽手術、その後始業時間まで病院に付き添って、会社で書いたメールだ。

願いもむなしく、Yさんは帰らぬ人となった。
新宿駅長を最後にJR東日本を退職、関連会社の役員をやった後、浪人していたのを、鉄道会館の常務取締役総務部長に来てもらったのだ。
それまで私は知らない人だった。

温厚な芯の強い人で、ほぼ完ぺきに私をフオローしてくれた。
早朝出勤は俺の勝手だから、あなたは普通の時間に出て来てくださいというのに、いつも早くきて、「あ、きょうは負けた」などと笑うのだった。
ついてこれない社員や不満がありそうな社員をみつけると、慰めたり励ましたりしていた。

遺された娘さんに病院に来てもらった時は、もう希望はほとんどなかった。
私と同じ、心臓だった。
こんなことになって申し訳ないと、ひたすら謝る私に、娘さんが「前の会社とちがって鉄道会館は働き甲斐がある、といつも嬉しそうに社長(私)の言った言葉を聞かせてくれました。父があんなに張り切って働く機会をくださったことを、感謝します」と冷静にいうのが、切なくもあり、わずかな救いでもあった。

通夜から葬儀までの一つひとつについて、これはどうしよう、父はどうしたら喜ぶだろう、そうそう、そうですね、と私とひざ詰めで決めていった。
葬儀にたくさんの人が参列すると「お父さん、えらかったんだね。褒めてあげたい」といい、御骨を納めた骨箱が思いのほか重いのに「お父さん、凄い。しっかりした骨だったんだね。えらいね」などというのだった。

私と一緒にならなければ、もっとゆっくりした老後を送ったのではないか、と思うと、その死に責任を感じて辛かった。 いつも笑顔で楽しそうにしていたこと、いぜん働いた関連会社では面白くなかったといったこと、鉄道会館の改革に彼自信も燃えていたことが救いではあるけれど。

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