国鉄貨物の衰退とともに臨海鉄道の貨物取扱量・収益も減少の一途をたどり、このままでは、経営の前途は憂慮すべき状態だった。
とくに若いプロパー社員の人生がかかっているから、なんとかして収益を確保することが経営者の責務であった。

どこから聞いたか、国鉄貨車を解体する仕事があるという。
なんとか名臨でもその仕事を受託しようと思った。
社内で相談すると、Sさんが猛反対する。
国鉄貨物を支えてきた”栄光の名臨”が、そんな悲しい仕事を受けるべきではないというのだ。
運転部長のTさん(国鉄出身)も反対する。
解体した部品をどう処理するのか?
焼却するにはキチンとした設備を設置しなければならないし、消防の許可はなかなか降りそうもないなどと、言い立てる。
要は新しいことをやりたくないのだ。

臼井さんに相談すると、彼はやることに賛成で、彼の名古屋駅長の前任だった林さんが役員をしている西濃鉄道では、すでに受託して実績をあげているという。
もしかすると、臼井さんがさいしょに私にこの話をしたのかもしれない。

さっそく大垣の林さんを訪ねた。
「なにも難しいことはない、壊した貨車は現場でそのまま焼けばいいのだ」と現地を見せてくれた上に、今後の指導も快諾してくれた。

Sさんは、私に言って真鍋社長を引っ張って来たという自負もあり、臼井さんなどより先輩の大ボス、とうじは子会社の臨海通運の社長にいて、もっぱら真鍋社長の麻雀などの設営をして、OB連中に対して隠然たる勢力をもっていた。
「あなたみたいな若いのが突然そんな突拍子もないことをやれといっても、あの真鍋さんも許さないだろう」などという。

真鍋社長に諮ると、すぐに「やってください」。

さっそく本社の貨物局にいって、課長連中にその仕事を名臨にも委託してくれと頼んだ。
私は、営業部長時代は、貨物集約を発駅まで行って荷主を説得する方法が全国会議で紹介されるなど貨物局からみて、好意をもってみられていたし、ぶっ飛ばされたことについては同情もあった。
東京北局時代の上司・総務部長や見習い時代の上司などが課長をやっていたこともラッキーだった。
激励されて、なんとでも応援してやるという約束を貰えた。

肝心の仕事をするプロパーたちは、どう思うだろうか。
委員長の浅井君に話すと、一も二もなく「やります!」との返事。
彼らが一番会社の行く末を心配していたのだ。

西濃鉄道に見学に行かせたりして、ほんとに簡単に構内に適当なスペースを見つけて、解体焼却を始めた。
実際には、いつも高い方が適用されるような「割のいい」出来高制の手当を新設した。
炎暑のなかの作業を激励にいって、終わった連中と近くのホルモン焼きの店で生ビールを飲んだ(もちろん会社のおごり)。
それで会社の経営がどうなるというほどの仕事ではかなったが赤字は出さなかった。
むしろ、現場の社員たちのやる気が芽生えたこと、国鉄からの天下り組と現場で安い賃金で働くプロパー社員との間の垣根を(少なくとも私との間では)なくしたことが最大の収穫だった。

そのときのメンバーを中心に駅、機関区、車両区、貨車区などの現場管理者(国鉄OBがほとんど)もタテヨコナナメが集まるホルモン焼き屋(プロパー社員の実家が経営する)
の定例会をつくって、「ナンコツ会」を結成した。
軟骨とは、そこでいつも食ったホルモン焼きの名前だ。
会長は私で、社長や副社長、臼井さんたち本社の人たちも参加して、私が名古屋を去ったのちも何回も開催した。