ホテルメッツは、とうじ国分寺駅ビルの社長をしていた長谷川忍さんが、始めた新しいコンセプトのホテルだ。
駅から至近、シテイホテル並みの快適で質の高い客室、リーズナブルな価格、宿泊機能に特化、ローコスト経営、などを特徴として、1994年久米川、武蔵境、1996年国分寺、ついで浦和、水戸、川崎などにも作られて好調な経営成績を示し、その後もさらに広く展開することになっていた。

いくつかあった新たな建設計画のうち、津田沼については、長谷川さんが、計画を建てて自分の会社(国分寺駅ビル)でやりたいといい、私たちも了解していた。
ところが、いよいよ着工という段階で、住田さんが国分寺駅ビルにやらせることはダメだという。
メッツ事業が有望だということで、ほかにもいくつかのプロジェクトに何社かが手をあげている、そういうふうにバラバラなやり方で進めるのはよくない。
たしかにそれはそうだったが、すでに久米川以下のメッツは国分寺駅ビルが手掛けて、成果をあげているのだし、なんといっても、すでに内諾を与えているから諸準備が進行中である。
とうじはホテルメトロポリタンは、メッツには意欲を見せていなかったし、ぜひ津田沼は既定の国分寺駅ビルにやらせてくれと言ったが、頑としてきかない。
結局、高架下の開発をやっている「ジェイアール東日本
都市開発」にやらせることになったはずだ(現在は他のメッツとおなじく日本ホテル経営となっている)。

私は長谷川さんに謝り、了承してもらったが、関連事業本部長なんていっても、メッツひとつの建設主体でも会長の意向を確かめなければならないような、本社の仕事の進め方にすっかり嫌気がさしてしまった。

そうして、つくづく自分はこういう大きな会社の本社組織の上で、きれいにいえば「大所高所」からなにか有為な仕事をなしとげる力もない、まして、力もないままに、本社幹部としての特権にしがみついて保身を図り続けることは嫌なのだということに、思いが至った。
常務ともなれば、黒塗りの車もついたが、ほとんど利用せず招待された料亭に歩いていって下足番に妙な顔をされることもしばしばある、そんな男は、身の丈にあった規模の会社や現場でこそ生き甲斐を感じられるのだ。

同期で人事担当常務をしていた大塚君(のち社長・会長、現顧問)に、「本社の役員を辞めたい、ついてはまだ食っていかなければならないので、どこか小さな駅ビルにでも出して欲しい」と言ったら、即聞き届けてくれた。
私を引き上げてくれたのは、松田社長だから、松田さんに言うべきだったと反省している。
さらに、少なからざる先輩たちが陰ながら私を本社に推してくれたのに、大した役にも立てないままに、勝手にやめるのは申し訳ないことだとも思ったが、相談してどうなるものでもないし、さっさと辞めるというしかなかった。

辞めると決まってから、関連事業本部の組織改正の話が出て来て、私はその頃の関連事業本部の仕事の仕方のアンチテーゼのつもりで、ぜったい実現しないだろうと思いつつ、固定的な部課制や個人ごとの担務制を排して、仕事に応じてその都度最適な人材を集めて機能的に取り組む
グループ制、ギャング制を基本にした案を作った。
企画部長のS君が松田さんに説明したら、すっかり気に入って、それが採用になった。
しかし、それは単に名称を○○グループと、カタカナで呼ぶだけで、私が企図するようなものとはまるで異なる、内容は旧態依然たるものだった。