会津坂下の人はみんな懐かしいのだけれど、今回はこの人。

筆頭助役(職名ではなくいちばん先輩の助役)の長さん。
駅員たちはちゃんと○○助役さんと呼んでいたけれど、わたしは長さんと呼んだ。
現場では、とくに管理職に対しては、きちんと職名をつけて呼ぶのが普通だったから、「わし、ちょうさんですかあ」とちょっと面食らったようだったが、そのうち、ほいきた長さんになってくれた。

最年長で、ずっと会津線にいた。
坂下から只見にむかって二つ先の会津柳津の旅館の長男?で、それがゆえに会津線を離れることを嫌い駅長試験は受けなかった。
「頭がいいし、何でも知っている」と他の助役は、少し恐れをにじませて話してくれた。
鉄道現場の知識に詳しく、運転保安関係について、現場幹部がなにより怖がる管理局の保安検査への対応などでは、彼の「指導」を大事にして準備した。
といっても、もう上に行こうという気持ちがないから、私の立場がおかしくならない程度の準備を教えて(今までの駅長の準備万端ぶりはこんなものじゃない、といいつつ)くれた。

官僚的な運輸長や管理局の指導で、理不尽なことがあると、私は「それは間違っている」という。
長さんは、「そんなこと言ったって、どこの駅でもこれに従っている、駅さんは学士だからそんなことを言える、局も本社も駅さんのように考えてくれればいいけれど」とちょっと不貞腐れることもあった。

正直なところ、私以外の助役を含めた駅員たちがおそれていたのは、少しだけ意地の悪いところもあったのではないか。
私は頼りになる親父みたいな感じで、たいていのことは相談してやった。
留置線に置いてあるタンク車からぽたぽた洩れる石油を貯めて、石油ストーブで楽に暖をとることなんかも。
コークスのストーブが決まりで、石油ストーブなんか支給してくれなかった管理局だった。
私が酔っぱらって不始末をしたときに尻ぬぐいの方法を指南してくれたのも長さんだった。

酒が好きで、しょっちゅう酒を飲む会を提案した。
出札のムネやんも酒好きで、二人とも強かった。
若宮の朝鮮人の民家でドブロクをあおって生の豚のモツを食らった。
今でも行きたいくらいうまかった。

会津坂下は特殊日勤といって、駅長は日勤だが、その後21時過ぎの最終まで駅の仕事はあって、助役が交代で当務駅長として列車扱いをする。
その後、出番だった駅員は駅に泊まって、翌朝の列車を扱い、日勤時間帯に出てくる駅長以下当務駅長たちと引継ぎをするのだ。

妻が長男のお産のために東京にいて、私が単身でいたころ、一杯やってから駅に行くことがニ三度あった。
ようすを見たいというつもりと、みんなと話したい気もあったが、長さんが最終列車のあと、酒を飲んでいると告げ口をする人がいたのだ。

私が行った時は、誰も酒を飲んでいなかった。

あるとき、長さんが「駅さん、夜になって駅に来るのは止めてくれ、みんなちゃんとやってるところに赤い顔をしてきていろいろ喋っていくのはよくない。何かあれば駅長官舎に知らせるから信用してくれ」ときっぱり言う。
それから、夜駅に行くことをやめた。
赤い顔をしていなくとも、行くのをやめた。
仕事がすべて終わってひと風呂浴びて、狭い寝室で雑魚寝する前に冷や酒の一杯や二杯、呑んだところで、何が問題だ、俺だって機関士見習いや局の指令当直見習いのときに茶碗酒を飲んだではないか。
と思ったのだ。
密かに駅に行って、彼らの飲酒現場を見つけたら、いったいどうするのか。
もしかしたら、自分も一杯(落語の禁酒番屋や二番煎じのように)付き合うことになりかねないとも。
それとも、「俺の任期の間だけは禁酒してくれ」とでもいうのか(アホか)、と。

一年過ぎて、人事異動で、千葉局に異動するとき駅員たちに挨拶をしていたら、涙がこらえられなくなって、せき挙げてしまうと、すぐに長さんも泣き出して、ほかのみんなも泣き出した。