2021年09月

マル生の全国研修は凄まじい効果を上げた。
研修から帰った人事課の若い課員が、私に話を聞いてほしいというから会議室で二人になった。
彼は突然「課長はどういうつもりで私を研修に出したのですか?!」といったなりに泣き出した。
あの研修で習ったことを実行しようとしたら、今までの人間関係をないものにして死ぬ気にならないといけないのだ、という。
「今やるのだ、俺がやらなきゃ誰がやる」と今までの「堕落した、国労と癒着した」自分を覚醒して新しい生き方をせよ、と受け取ってきたらしい。
同じ研修に参加した人たちが、口々に、みんな揃って決起を誓ったという。
私は、一人ならず参加したほとんどの人間をわずか四日ほどの研修で同じように変えてしまうというのは、なにか不自然なことに思えた。
そんなことで国鉄が変わるとは思えなかった。

本社は職員局のなかの養成課を能力開発課と名を変えて、神がかり的にマル生運動を推進する大野光基氏を課長にあてた。
彼は本社採用学士で、生産性研修を受けてから自分のそれまでの生ぬるいエリートとしての生き方を根本から反省したという(それは本気だと私は受け取った)。

本社から地方局においても、能力開発課を作って人事課の業務であった教育研修業務を行わせよという指示がきた、マル生運動事務局というわけだ。

当時要員削減のために、非現業部門は理屈抜きに毎年各課一律に7%の定員を減らすことが義務付けられていた。
もともと田舎のC局(東京はA局)として少ない人員だった千葉は急激な業務量の増加に対してただでさえ課員が少なくそのノルマの遂行には苦しみ抜いていた。
人事課の教育研修業務要員は庶務業務を兼掌する者もいた、そこへ能力開発課を新設せよといわれるのは合理化・7パーセント削減の旗振り役として切ないものがある。

さらに私には人事課長として自分の力の半分くらいを教育研修業務に充てているという自負があった。
よその人事課がややもすれば教育研修業務を片手間仕事のように見なしているのとは訳が違う。
新しく課を設けて、課長はどうするのだ?
課長という名前だけで、本気で教育に取り組むような人は千葉のプロパーにはすぐには見当たらない。
本社から出す?そんな学士がいるのか?
猫の手も借りたいような多忙を極める現場から研修要員を出してもらうのは、人事課長の「威光」も必要ではないか。
いろいろ言って、千葉では能力開発課を作らないと頑張った。

そのうち全国で千葉だけが能力開発課を作ってないから、なんとか看板だけも、といってくる。
総務部長や局長も、少しは本社の顔も立てたらという。
已むを得ず、人事課の隣に能力開発課を作り、私・人事課長が課長を兼務することにした。
私は「日本一の能力開発課にしよう」と大きく紙に書いて窓ガラスに貼った。
不当労働行為なんかやらない、ほんとの教育で質量ともに日本一にしよう、と。
本社から『マル生情報』を発信せよと毎日催促してきたが、それには応じるなと課長命令。

半年くらいそれで頑張ったが、本社採用の、とても優秀な技術屋を送るから受けろと言われ、U君を課長として迎えた。
気立てのいい男で、不当労働行為などとは無縁な人だったのでほっとした。

人事課長の二年目に国鉄本社は日本生産性本部と組んで全国一斉に現場の一般職員を対象に生産性教育を行いその終了者を核にして生産性運動を展開した。
国鉄といえども生産性を向上させなければ企業の将来はないし、職員の待遇や生き甲斐は得られないとして、職員の覚醒をうながし行動に立ち上がらせるのが目的だった。

問題は、その行動とは社会党や共産党ないしは過激派につながり国鉄の合理化に反対し政治闘争に走る国労動労から脱退し民社党系列の労使協調路線をとる鉄労に加盟させるということ、すなわちその本質は当局による不当労働行為まがいな国労動労つぶしにあった。 身も蓋もない言い方をすれば、当局があの手この手を使って、厄介な国労動労の組合員を脱退させたり、鉄労に加入させるのだ。

総評の中核部隊として、国鉄の企業としての再生を図るのではなく、職場に反合理化の労働運動を、反権力の社会(革命)運動を、という組合を相手にしていては、いくら立派な経営改善計画を立てても、その実行は期せられない。
当時の真鍋本社職員局長常務理事は、後日私に「あれしかないと思った」と述懐した。

まず、どんなものか食ってみて、良かったら進めよう、と全国人事課長会議で大野養成課長が言った。

全国から何人か先発部隊が選ばれて三泊だったかの試験的な研修を受けた。
私もその一員となり、そのときは箱根の小涌園で、うまい飯を食い立派な部屋に泊まり、いい気分で学ばせてもらった。
二回目からは生産性本部の施設で厳格な規律を守って研修が行われるようになった。

講義内容も、たしかに今の国鉄職員には欠けているものの見方だと納得もした。
千葉局に戻って、局長に報告すると、学んだことを部長会議の席上ですべて発表してみろという。
喜んで、小一時間ほど講義すると、黙って聞いていた局長が、「うん、その内容なら千葉局でも研修を進めていい」とお墨付きをくれた。

勇躍、私は管内職員に生産性研修を行う計画を立てた。
生産性本部の資料のほかに、私自身で紙芝居みたいな資料を作って、たとえば新小岩操車場をストで一日止めると、そこに滞留した貨物の財産の一日分の利子が無駄になる、などと計算してみせて、生産性をあげるのは、職員一人一人の力にもかかっているとか、創意工夫によって生産性を上げるためには自主的自立的に働ける職場を作っていく必要があることも強調した。

研修は県の青年の家みたいな所を使って二泊三日、私はそのすべてに出張して、カリキュラムや研修期間は禁酒、お互いに職名で呼ばず、名前で呼びあう、などのルールも私が作ってリードした。
今思うと、研修指導者としてのスキルも身に着けずに思いつきだけでやっていたという面も否定できない。

だいじなことは、千葉局では不当労働行為は一切やらない、ということ。
それは局長ともしっかり確認しあい、私自身が鉄労地本に赴き、S委員長に「生産性運動を広く展開するけれど、不当労働行為は一切やらない」と通告した。

もとより本社も表立って「鉄労を増やせ」とはいわない。
言わないが、毎日「マル生(〇のなかに生と書いた)だより」を送ってきて、やれ金沢局では総務部長がなんとか機関区に行って、マル生研修修了者を激励したとか、どこどこ局では何人が国労脱退届を出した、などと書いてくる。
部下や運転系統出の総務部長に「千葉は動かないのか」と聞いてくる本社の幹部もいる。
私は部下に、生産性研修の実施報告以外に、組合員数の異動など一切報告してはならないと命じた。
そして、本社能力開発課(養成課を改名)の課長補佐に長い直筆の手紙を書いた。

生産性を向上させるのになんの異議もないからそのための研修はやるけれど、不当労働行為はやらない。生産性向上の敵は官僚的な組織だ、官僚的に上からの指示だけで動く組織を自発的に動く組織に変えるべきだ、というのもこの研修の重要なテーマであり、私は以前から同じ考えであったから、その点を重視して研修を行っている。

しかるに今の本社のやり方は、どこの総務部長がどうしたの、どこの国労組合員が何人脱退しただのを毎日地方に知らせて尻を叩いている。
まさに官僚組織を利用した、官僚的なやり方そのものだ。
そんなことでは、国鉄はほんとに変わることはないと思う。
その点についてご指導を願う、と。
本社から返事はなかった。

あの時、本社の意向に反していわゆる不当労働行為的な生産性運動を行わなかったのは、広島局と千葉局だけだったと聞いた。

2月に赴任して、春を迎えたと思ったら、春闘だ。
国鉄労使は春闘に合わせて、大きな合理化案件を団交のテーブルに乗せた。
組合(民社系列の鉄労を除く)はストを構えて、合理化撤回の旗のもと、当局提案の修正や懸案の労働条件の改善を迫り、お互いにストライキという時間の壁を梃に案件の妥結を図る。
そのことを「(ストを)立てなきゃ倒れない(妥結できない)」と言った国労幹部もいた。

組合が何カ所かのスト拠点を発表すると、当局はそれぞれ派遣の対策本部を設置する。
私は、その年はもっとも荒れそうな千葉気動車区で運転部長を本部長とする副本部長になった。
(その後も、もっとも荒れそうな拠点に副本部長となった)。
国鉄は公共企業体であり、その職員は公務員に準じる者として争議権は認められず、ストライキは違法なものとされていたから、当局は何とかして仕事に就く者を確保して、列車の運行を図ろうとした。
同時にストに参加した職員を現認し懲戒処分を行わなければならない。
現地本部は、当局の説得にしたがって乗務しようとする職員の安全を確保するとともに、構内の秩序を維持するために、構内をデモ行進したり乗務しようとする職員を脅したり連れ去ったり電車の前に座り込んだりする組合員を構外へ出るように説得し、排除しなければならない。
血気盛んな組合員は暴言を吐くのは当たり前、暴力行為に及ぼうとすることもある。
こうなると刑事事件になり、やった本人はクビになる可能性が高いから、組合幹部も一触即発のところで抑え込もうとする。

千葉気動車区をはじめとする動力車区では動労青年部が力をふるっていた。
後に千葉動労を率いて本部の松崎明と対立する中核派・中野洋が地本青年部長として、この日も現地で指揮をとっていた。
そのころの朝日ジャーナルで、中野の「自分はいつも組合幹部の後ろから鉄砲を撃つことを考えている」というような発言を読んだことがある。

当局の対策本部は、大隊小隊、医療班、現認班、広報班、公安班などに編成され、「第二大隊第一小隊第二小隊は○○に出動します」と敬礼し、隊列を組んで移動する。
現地とは無線で連絡を取り合い、本部では構内地図に居場所を磁石のついた旗で表示、映画でみる戦争のようで、その実質的指揮者は、ベテランの労働課補佐のアドバイスを頼りにする私だった。 対策要員は管理局や現場の管理者がかきあつめられた。 私も会津坂下のときに会津若松機関区に駆り出され「坂下の若造帰れ!」などと罵声を浴びせられた。

その年までのスト対策は、裏で労働課の担当者と組合が連絡を取り合い、事態が大きく広がり制御不能になる前に双方が適当に退いたり攻めたりしていたのだが、新任の泉局長から「相手がこちらの説得を聞かずに違法な闘争を行うのだから、馴れ合い的な接触はやめろ、信頼関係を前提にした日常の便宜供与は認めるな」と組合支部の建物も含めて当局施設である構内から排除する基本方針が指示された。

70年安保前年、成田空港反対運動などの情勢に加えて、千葉局独自の問題としては急速な電化などの近代化合理化施策が組合員の不安(とくに機関助士や踏切保安係など合理化対象職種)を募らせていた。
さらに、大きな問題として「採用前提臨雇」の存在があった。
国鉄の要員縮減のために各局の採用数を本社が割り当ててくるのだが、その数は少なく、千葉局で必要として「採用」した職員がいつまで経っても臨雇(臨時雇用員)に留めおかれていた。
私が着任した直後の集団交渉も動力車区の臨雇たちが大勢傍聴にきて、新しい人事課長の所信を質すもので、私は平謝りに謝って、臨雇を解消すべく全力で本社に働きかけることを約束した。
その臨雇(優秀な若者)たちの不安を煽って急進的な運動論を吹き込んで革命闘士に育てていたのが中野だった。

到着した気動車の乗務員を出迎えて本部まで連れてくるために一個連隊とともに暗い構内を歩いていると、後ろのみんなは、怖いものだから、少しづつのろくなって間があいて、いつの間にか、私一人になっている。
人事課から出ていた古ちゃんが「課長が殺される!」と叫んだときは、運転室の前で組合員に取り囲まれていた。
乗務員を救出にいって、駆け付けた公安官に救出されたというお粗末だ。
暗闇からびゅっと石が顔をかすめて飛んだこともある。

広い構内を一晩中「出てけ」と組合員を追いかけまわしているうちに、夜もふけて、外に出ても行くところがなくなった組合員は二階の作業詰所に入り込む。
そこもダメ、だって雨が降り出した、それでもダメ、見ると長いベンチや椅子を積み重ねてドアが開かないようにしている。

これが、東京の本社に知れて大騒ぎになって、警察を入れて強制排除せよとの指令、準備をしていると「検察庁とも連絡を取ったら、千葉地検の前の検事正が現地に向かうから、それを待て」という。
前の検事正って何だいと思っていたら名刺交換して「前野検事正」だった。

今の前野検事正の見守る中でもう明るくなった詰所階段に、警察部隊が控え、まず鉄道公安官が上がろうとしたら、降参ギブアップ、みんな静かに降りてきた。
その日の毎日朝刊の全国版には「過激派国鉄気動車区にバリケード」と大見出し写真入りで報じられた。
総務部長は事情聴取のために本社に呼びつけられたが、私は「全国でもやっていない厳しい態度を貫徹した故のハプニングだから胸を張ってそう言ってください」と送り出した。
ずいぶん後に、あれは組合としては、最初からの戦略だったのか、窮余のハプニングだったのか、中野に訊いてみようと思っているうちに亡くなってしまった。

ストが解除になっても、対策班はすぐに解散できない。
この私が、現認メモを提出してチエックを受けなければ帰さないというからだ。
50歳以上の人に手を挙げてもらって、彼らは免除すると。

1969年2月9日、私は雪国会津坂下駅で10日付で千葉鉄道管理局の人事課長を命ずる旨の内命電話を受けた。
あの頃は、まいとし2月10日に定期異動があり、その前日の内命を、二年経過などの管理職たちはドキドキして待っていた。

千葉局は、久しくサツマイモと落花生の局として田園主体ののんびりした局で、私が着任したときはまだ両国始発の蒸気機関車も健在だった。
しかし浅草橋以東が管内だったから、総武線の通勤輸送が急激に伸びてその対策としての複々線化工事が始まり、房総西線(内房線)、東線(外房線)、成田線の電化など近代的鉄道へ大変身の真っ最中で、「躍進千葉」を旗印に、いわばいつも盆と正月が一緒に来たような状態だった。
余談になるが、さよならSlとか、房総西線電化記念とか、イベントがしょっちゅうあって、人事課長はそういうのには列席しなかったが、レールで作った文鎮とか記念乗車券とか、いろんなものをもらった。
それを退職後の引っ越しのどさくさに紛れてタダ同然で古道具屋に引き取ってもらったが、44年間のそういったものを今持っていれば一杯飲めたかもしれない。

それまで千葉の人事課長は、ずっとノンキャリだったが、70年安保も控えて私が任務に就くことになった。
もっとも当時は無我夢中で、自分の任務を難しいかどうかなど考える余裕もなかった。

10000人くらい?の規模、その規模を圧縮しながら、新しい業務に質量で対応していかなければならない。
信号の自動化、踏切の自動化、貨物駅の統廃合、、いろんな施策によって要員を捻出し再教育などもして配置転換する。
もともと千葉局は房総の夏に爆発的に旅客が増えるので、夏季輸送対策として毎年その時期に臨時列車を増発する。
それまでに合理化を進めて浮いた人間を房総に充てる、そんな自転車操業をしていた。
その上に、電化だなんだで、まあ、てんやわんやだった。
自局で賄えない運転士を高崎局から借りたり、それでも足りずに私は大阪局まで行って、三年先輩の人事課長に、「一人でもいいから運転士を貸してください」と頼みこんだりもした。
踏切保安係(踏切警手)に面談して、転勤して改札の仕事をするように説得したこともある。

人事課には次のような係があった。
「庶務係」、課の庶務と養成と賞罰、私はすぐに養成賞罰係と名前を変えさせた。
課のまとめ役、Gちゃんという最高の人を得た。
千葉鉄道学園を所掌し、定期的な研修のほかに、転換養成や啓発など各種臨時研修も企画実行、功績章や表彰、事故を起こした者の処分、スト参加者に対する処分、、係長以下5人。
「定員係」、各職場の定員査定、合理化計画の取りまとめ、団体交渉、係長以下5人。
ここが局の心臓、しっかり動かないと局は止まってしまう。
虎さんという猛者がいたが、二年目に補佐に引っ張り上げて、そのあとは甲州の人ホマちゃん。 虎さんと私は「関東で最高のコンビ」と関東支社人事課長が評した。
「需給係」、全職場の管理職、中間職、労務職ごとの定員実在員、養成や病気で非実働員を日別に管理していたのは黒ちゃん、それで私は大阪局に「一人でも」と頼みに行けたのだ。係長以下2人。
「任免係」、職員の任命異動など、飄々とした書道の達人H係長以下3人。
「配転係」、私が任免から独立して作った、思い出を作りましょうとイチゴ狩りに連れていってくれた係長、えんちゃん、1人。
「給与係」、職員の昇級昇格の定数管理、最初はニヒルな顔のHさん、ついで私の「ワイがや情報」(後述)に付き合ってくれたO係長以下2人。

課長と補佐をいれて20人の所帯、一騎当千の兵ぞろいだが、みんな忙しくて会議や団交で、いつも在席率は半分以下だった。
それで、銘々の机と椅子を止めて、フリーに座れるようにした方が、打ち合わせや一服(夜は一杯飲む)ためのスペースが取れていいじゃないか、と提案したら、「何をおっしゃる!肘掛けのついた椅子に座る(係長)のを目標に頑張って来たのに、、それは最初から課長の椅子に座る人の発想だ」とケンもホロホロだった。

長男が東京で生まれたとき、難産であることを知らされながら、私は駅を離れなかった。
助役が心配して、行ってきなんしょう、といってくれたが、休みを取ることをよしとせず、土曜日にやっと上京した。
別に私がいなくてはならない、という仕事があったわけではないのに、駅長たるもの私用で駅を留守にしてはならない、という肩肘張った気持ちがあった。
今、妻の心細さなどを想うと、ほんとに冷酷な思い上がりだったと、頭をかきむしる思いだ。

罰が当たって、妻を見舞って日曜日に会津に帰る際、上野まで乗ったタクシーに乗車パスを落としてしまった。
罰として半年間?、乗車証の発行停止になっている間に仙台出張などがあると、その都度自費で切符を買わなければならない。
千葉に転勤が決まった送別会で、助役がそのことを駅長で感服したこととして挙げたのには驚いた。
ふつうなら車掌に頼んで顔で乗るのに、というわけだ。
見習いのとき、西宮の祖父に金を借りに行くときは同期の新幹線見習いに頼んで顔で新幹線に乗ったのに、駅長はそういうことはできないと思ったまでだが、部下というものは、こっちが覚えていてほしいことより、思いがけない後ろ姿を見ているものだと思った。

しょっちゅうガリ版で「会津坂下駅だより」を作って待合室においたり、ポスターの裏で壁新聞を作ったりした。
高校生が客車列車に乗る時のマナーが悪く危険なので、写真に撮って壁新聞で注意を喚起したら、地元紙に取り上げられて高校からも学校新聞に寄稿してくれといわれて一面記事になった。
ススキ、栗の枝など、四季の草花を待合室にデ~ンと飾った。

ゴミ捨て場がないので、構内に穴を掘って捨てていた。
局では予算がないというので、町の工事現場に行って、ブロックやセメントを分けてもらって、駅長の畑の片隅に焼却炉を作ってしまった。
取っ手の付いた鉄の蓋や煙突もついたかなりの出来、不器用な私だけでは作れないから、みんなが手伝ってくれたのだと思う。
巡回に来た運輸長室の人に「見なかったことにする」といわれた。

駅前の丸通の営業所長の誘いで、彼の運転するボロ車で七日町まで飲みに行ってしこたま飲んだ帰り、酔っ払い運転の車があやうく側溝に落ちそうになった。

石油タンク車から石油を抜いたあと地面に垂れる石油をバケツで受けて、それで石炭ストーブを使うほどの寒さでないときに簡単に火が付く石油ストーブを使ってみんなで喜んだ。
石油ストーブを買う金は、古い机などを新しいスチール製のものに交換するときに、古いものは現地で処分せよと局からいわれたのを幸い、大きな立派な「駅長の机と椅子」込み一括セットでどうだと町の石油商店の親父に持ち掛け、いい値段で(大喜びで)買い取ってもらったのをあてた。

脈絡もなく書き続けるといくらでも出てくる懐かしい思い出、そろそろこの辺で取りあえず会津坂下駅を去ることにしよう。


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