2021年10月

東京地検特捜部生みの親といわれる河井信太郎氏が横浜地検の検事正だった。
彼はいつも「自動車が速度の二乗に比例する衝撃を与える、致命的な乗物であることを念頭に、取り締まりを徹底せよ!」と月に一度の取り締まり状況の報告に交通部長がいくと、直立不動の部長に延々とお説教を食らわした。

私のカウンターパートは地検刑事部の副部長で、温和な人だった。
仕事自体ではあまり印象にのこるやり取りはなく、何回か鎌倉カントリーでゴルフをご一緒したが、とても楽しそうにしておられた。
検事たちに酒を飲んでまっすぐな線の上を歩いてもらって、飲酒運転がどれほど危険なのか実感してもらったこともある。

出勤するとまず昨日の交通事故死者数とその事故の概要の図解が報告された。
大阪、東京、北海道、福岡、兵庫、千葉、神奈川などが死亡事故のワーストを争っていて、日々一喜一憂した。
道路の規制などに問題がありそうなケースでは隣の交通規制課に相談に行くこともあった。

部内の会議は、あまり多くはなかったと記憶している。
暇が出来ると県内の取り締まり現場を廻った。
前にも書いたが、運転士のH君はもっとさぼってもいいのじゃないか、後ろに運転士の分と二組のゴルフ道具を入れている人もいる、といったがそれはしなかった。
しかし夏の甲子園野球のとき、千葉の銚子商業が江川の作新と当たったときは、市内をぐるぐる回りながら中継を聴き、土屋が江川に投げ勝ったときは嬉しかった。

ときどき国鉄の先輩たちが(急に)声をかけてきて「いま伊勢佐木町のどこどこにいるから出てこい」というようなことがあった。
東京南局の貨物課長は東京でご馳走してくれて、国労東京地本企画部長の鈴木司氏を紹介した。
その鈴木さんが、ある日電話してきて、知人が交通違反の切符を切られたので、なんとか助けてもらえないかという。
「取り締まる立場の人間がもらい下げなんてできるわけがないじゃないか」と断った。
それから鈴木さんはなんどか声をかけてきていっしょに伊勢佐木町でのみ、ツーさん、ピンさん(私の通称)と呼び合うようになった。

神奈川県警交通指導課にいたころが、私の社会人人生でも最後の平穏な日々だったかもしれない。
次男が生まれたのは横浜の警友病院、ちょうど千葉からOさんが遊びに来て一杯飲んだ勢いで、病院にも連れて行ったら、妻が熟睡している。
布団が膨らんでいるので、手を当てたらすっとしぼんでしまった。
すでに赤んぼは生まれていて保育器にいたのだ。
無理をいって赤んぼを見せてもらった。
三人の幼子を抱えた妻にとってはとうてい平穏だったとは言えないかもしれない。

県警では少年課長、外事課長が二年後輩で、よく一緒に中華街で昼飯を食った。
捜査二課長、警務課長は4年先輩、警務課長は私の前任で、着任早々二人で歓迎会を開いてくれた。
二課長も読書家で、昼休みに有隣堂に寄ったとき、イザヤペンダサンの本を買ってくれた。
少年課長と外事課長とは、二度ほど本部長の家にいっしょに押しかけた。
交通取り締まりの装備資機材がお粗末なことを言って、二度目に行った時も同じことを言ったら、「君はそういうならきちんと計画を立てて要求しなきゃだめだ」と逆に𠮟られた。
さっそく整備計画を作らせて、それによって予算要求をすることにした。

あの頃、囲碁の真似事がおもしろくて、昼休みになると机の脇で二つ折りの碁盤を開いて、ぱちぱちやる。
相手はいつも運転士の原君、一時間足らずで10局もやるのだから、囲碁の真似事なのだ。

夏の甲子園で、銚子商と江川のいる作新学院の試合のときは、原君に頼んで、わざと市内をぐるぐる回って野球中継を聞いていたこともある。
土屋投手の好投で勝ったのだ。

妻は交通部内の部課長管理官の奥さん会に何度か出かけた。
会津、千葉、横浜、、その後どこに転勤しても、そこの名所旧跡を観に行くことがなかった。
横浜でも休日に大桟橋や山下公園に散歩に行くくらいだから、奥さん会(日帰り)で珍しい寺とかレストランに行ったことは今になるとよかったと思う。

そろそろ30歳になるのに、こんな平穏な毎日でいいのだろうか。
始末しなかった民事訴訟法の本などを眺めて考えこむ日もあった。

神奈川県警交通指導課は、毎年自動車工業会の委託研究という形で調査研究を行っていた。
そのひとつは、私が行った時はすでに終わっていて、表題も忘れたが、自動車事故は運転開始と終了の5分間に最も発生しているという結論の一つを覚えている。

私が調査方法からまとめまで取り組んだのは、町の中の交通違反実態の調査だった。
交差点、道路の走行中に車はどんな違反をしているか?
いくつかの交差点と道路を選んで私服の警察官が数採り器で調べる。
交差点に立ちづくめの警察官は顔が排気ガスで汚れる、見た目以上に辛い調査だった。

結果の詳細は忘れたが、右左折時の合図違反(出さない)がいちばん多かったと思う。
警察庁が調査結果を見て、中野の警察学校の交通専科で講義してくれと言われた。
全国の交通課長候補に教えるといっても調査結果の発表だったからそれほど緊張はしなかった。
車で行ったのだが、運転士のH君が環七の右折する場所を見落としてしまった。
交通規制の進んだ道路なので、一度行き過ぎるととんでもない先まで行かなければ戻れない。
授業の時間が迫っている。
ええい!構わないから、その先曲がっちまえ!右折禁止カ所で強引にUターンをして滑り込みセーフ。
全国の交通取り締まりのお巡りさんたちに交通取り締まりについて講義に行く私が交通違反で捕まったら洒落にならなかったな。

中野の警察学校(昔の陸軍中野学校)では、もういちど講義をしたことがある。
それは国鉄に戻ってからのこと、国鉄社員が見た警察みたいな表題で、大学出の上級職新人たちの教養講座だった。
このブログに書いたような、「警察は命令一下仕事をするようだが、現場の実際は必ずしも上の意図したようには動いていない」みたいな話を中心に与太話をして時間を過ごした。
若いエリート候補たちはつまらなかったようで、質問と云えば「国鉄エリートは辞めた後、どこに就職するのか」とか「鉄道弘済会の利益如何」みたいなくだらないものばかりだった。

縄張り争いは警察にもあった。
こっちだということもあり、こっちじゃないということもある。

あっちだというのが、警察署の境で起きた交通事故の面倒ばかりの事故処理。
衝突した場所が、所轄警察署ということになっているが、そのあと車や人が隣の警察管内に飛ばされたりする。
本部の交通指導課が裁くこともある。

交通と刑事で縄張り争いもある。
容易に解決しそうな事件ならこっち、手数ばかりかかる事故事件ならあっちで押し付け合う。

山手署管内、岸壁沿いの交通量の少ない道路に大量の人間の血が流れていた。
車も被害者もいない。
ひき逃げ事故なら交通、傷害事件なら刑事だ。
刑事はどうも腰が引けて交通にやらせたいようだ。

私は現場に行った。
側溝とその周辺に大量の血、ブレーキ痕とか車の部品などはなかった。
少し離れた反対側の側溝の近くに直径20センチくらいの石塊があるのを見つけた。
(交通事故として)衝突地点にある他の石は、接地面に血がついているのに、こっちは上側に血がついている。
車がはねるには大きすぎるようだし、なぜそんな方向に一つだけ飛んだのか説明がつかない。
どういうことが起きたのかは分からないが、人がこの石を運んだように思われる。

署長主催の捜査会議で、そんな発言をした。
三日後だったか、暴力団員の自白で、そこが殺人現場で、私のみつけた石は殺人犯が動かしたものだったことがわかった。
凶器だったかどうか、訊いたかどうかも忘れた。
捜査の神田警部が「刑事が課長に一本取られたといってます」というので「一升下げてこなくちゃね」捜査の神田警部と話したことは覚えている。
遺体は浜松近くの砂浜に埋めたそうだ。

ひき逃げ死亡事故などでは、遺体の解剖をする。
私は医学部ではないので遺体解剖をみたことはない。
学生時代に母の盲腸の解剖に立ち会ったことはあるが。

いちどひき逃げ事故の被害者の遺体解剖を見ないか、と言われて嫌だとはいえなかった。
気持ちが悪くなることはなかった。

その夜、解剖に連れて行ってくれた男たちとの会食があった。
野毛は安いけれどうまいフグの店が多かった。
鍋に入れられるのをまっているフグは解剖の腑分けそっくりだった。
気のせいか、みんなが私の顔色をうかがっていたので、知らん顔をして「うまいうまい」と食った。
面白い連中だった。

ピストルを支給され、訓練をうけた。
暗夜に霜の降りるごとくに、しずかに引き金を引け。
なかなか難しいものだと思った。
ガンマニアになる人の気持ちが少しわかった。

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