2021年11月

給与課のメンバーは、手当担当と基本給担当がそれぞれ補佐以下4人ほどの島を作っていた。学士の見習いや補佐もいたが、古くからいる人たちは専門的知識をもって私を助けてくれた。
公労委の金子先生の賃金研究所にひとり優秀な男を出向させて勉強させ、連絡役にもしていた。
なにもない日は補佐たちと私は連れ立って八階の社員食堂で昼飯(私は具だくさんの野菜タンメン)を食い、回数券を使ってトマトジュース(みんなはコーヒー)を飲みながら雑談やちょっとした打ち合わせをした。
もっともそれは、一年先輩の前任の総括が「重連」といって私が慣れるまで二頭立てでいたときに引き継いだ習慣で、彼がいなくなると、私は組合幹部から声がかかって、そっちと食事をすることが多くなってしまった。

猛烈に仕事をしたが、遊びもよくした。
土曜日などふっと僕も麻雀をしたくなって声をかけるとだいたいいつも既に面子が出来上がっていて、仲間に入れなかった。
今思うと、それでかなり出費を節約できたのだ、ああ、賭け事音痴の僕はどれだけ無駄な金をつかったことだろう。

徹夜交渉や国会待機(国会議員の質問取りが帰ってくるのを待つ)が続くと、自分たちの出番がくるまで、部屋の前の小会議室で、花札(オイチョカブやコイコイ)、カードやチンチロリンをやった。
もちろん、金をかけて、それは馬鹿にならない負けを背負う人もでた。
仕事をしている人たちに遠慮して、小さな声でやっているうちに、だんだん熱くなってきて、大歓声があがる。
とくにサイコロを丼にふりこむチンチロリンは、高い音が聞こえる。

壁一枚隣が法務課長の部屋だった。
あの、千葉人事課長をしていて当時労働課総括だった井手さんと対立したときに助けてくれた人の後任、やはり法務省キャリア検察官の出向だった。

ある日、労働課長がやってきて、とても遠慮がちに「さっき文書課長から注意された。法務課長が、カードや花札ならともかく、あのチンチロリンの音が聞こえてくると、さすがに職掌柄、黙っているわけにはいかない。あれだけは、、と言われたということだ、な、頼むぞ、そこんとこは」とおっしゃった。

三公社五現業には年度末手当というのがあって、毎年0.5カ月分支給されることになっていた。
その内0.2カ月分は予算措置の歴史的経緯で業績給とされていたが、それは名目上のもので、ずっと0.5か月が支払われて、労使ともに「生活給」であるという共通認識をもっていた。

大蔵省は、赤字国鉄は0.2を少しでも切り込むことをかねてから要求してきたが、生活給であるとする国会答弁を持ち出して、職員の期待を裏切ることは出来ないと抵抗、はねかえしてきたのだ。

企業成績のよい電電が闇でプラスアルファを支給していることは公然の秘密だった。

77年だったか78年だったか、大蔵はそれまでより強硬な言い方でマイナス支給を求めてきた。
たしか同じように業績のよくない郵政が密かにマイナス支給で大蔵と手を握っていたのではなかったか。
郵政当局は全逓に対して国鉄より強硬姿勢を取っていた。
大蔵の言い分は、赤字の国鉄と黒字の電電が同一支給はおかしいと電電が言っていて、このままでは電電のプラスアルファ要求を抑えられないというものだった。

私は電電公社の給与課総括に電話して、「国鉄はそちらがプラスアルファを支給していることに異議を唱えないから、そちらも国鉄の既得権になっている0.5カ月支給を了解して欲しい」といい、了解を取り付けた。
電電の総括は大学の寮で同室だったから話も早かった。

それではこれから、一緒に郵政の給与課に行って、ことしも三公五現は0.5で足並みを揃えることを確認しましょうと提案、郵政省に乗り込んだ。
郵政の総括もこれには否とは言えない。

それではこの場で大蔵省に連絡して三人で申し入れましょう、と私。
大蔵省は道ひとつ挟んだ向かい側にある。
国鉄を含めた三公社郵政は、本年度の年度末手当についても従来通りの支給とすることで合意しましたので、よろしくお願いします、そういうと、大蔵の給与課総括は電電郵政の二人の顔を苦々しげに見たうえで、分かりましたと答えて一件落着となった。

国鉄の手当削減という功名をあげようという、大蔵省給与課の独り芝居だったかもしれない。
真相は藪の中だ。
国鉄幹部や組合のほとんどが知らないうちの、国鉄職員の生活を守った私のささやかな手柄話だ。

「給与課は組合からも大事にされていいよな」などと冷やかされることもあり、苦しさのあまり目の前の局面打開のために禁じ手である給与課のその場しのぎの対応を望まれることもあったが、概して職員局内の労働課、職員課、給与課の三総括はいつも一体となって交渉にあたった。

組合からの申し入れ、彼らの動向、本社内の職員局に対する声などは、ほとんど三人で共有し対応も相談した。
交渉の途中で、組合となんらかの確認事項を結ぶようなときも、三人で文案を練り走り書きして作り上げた。
交渉決裂しそうなホットな瞬間に、どういうメモを出して火を鎮めるか。
三人でアイデアを出しあい、文章にする私が口述するのを、すばやく読みやすい字が書ける二年先輩・労働課総括の佐野さんが書き留めることが多かった。

総裁と委員長、職員局長と委員長などのトップ交渉の場での双方のやり取りを即座にメモにして同席しなかった人に配布することも多かった。

局長や課長たち相互は必ずしも一本化していなかったが、その間隙を埋めるのが私たち三人だった。
組合幹部に対する根回しも、それぞれがパイプの通じる相手を分担して、結果を知らせ合った。
動労と国労東京は、私が当たることが多かった。

私は現場見習いのときから、何処に行っても「(現場の)管理者一体の原則」ということを聞かされて、それが実は出来の悪い現場長とか筋の悪い管理局の指示を庇うものであったりすることが多いのを目撃して、その「原則」に不信感を持っていた。
そして、「管理者一体」であるべきは、むしろ現場より管理局とか本社であって、タコ壺にいて縦割り保身的な言動をとることこそ、国鉄を悪くしているとも思っていた。

先に書いた施設関係の合理化でのこと。
国労は「拠点出勤手当」というのを新設せよと要求、保線区などで作業するときに本区に出勤してから現場拠点に行くと非能率なので、直接現場拠点に出勤する場合があるのだが、その場合に特別手当を支給せよというのだ。
私が施設局の担当者に、そういう拠点出勤の事例、頻度、格別に必要になると思われる職員の負担などを具体的に教えてくれないと、そういう手当の制度化はできないというと、まったく答えられなかった。
現場の実態も把握せずに、組合の要求だからと、一緒になって要求してくるのだ。

職員局の三人はそういうことなく、三人一体で行こうと思ったし、おおむねそれは実行できたと思う。

53・10に先立って施設関係の合理化(一部作業の外注、保線区などの統廃合、軌道強化や機械化で13千人削減)があった。
国労は徳沢という中執が交渉を担当していた。
彼の持論は「当局は合理化を提案するなら予めそれに対してどういう待遇改善をするかについてもセットで提案すべきだ。合理化の出来高に応じて昇級昇格数を明らかにするような当局の従来のやり方は呑めない」というものだった。

一見合理的なようだが、その手は桑名の焼き蛤で、いったん表に出した待遇改善の中身を、合理化が進まないからといってひっこめてすむような相手ではなかった。
なんしろ基本が合理化反対、待遇改善の要求なのだから。

職員局内部でいえば、職員課が合理化の交渉をまとめたら給与課が待遇改善の中身を明らかにするという段取りだ。

そういう段取りは組合も腹の中で了解してやってきたのが、従来の経緯だった。
先に待遇改善の内容が明らかになってしまえば、反合理化で燃え上がっている下部組合員を説得して当局の望むような合理化をまとめる歯止めはなくなってしまう、それを当局に要求するのは無理であることは承知していた。

ところが、このときばかりは徳沢中執は、頑強に待遇改善先行を言い張り、それがなければ交渉に入らないと、一歩もひかない。
普通なら後から出ていく給与課が前面に引っ張り出された。

交渉を繰り返していると、焦点は「保線長」という現場職員の格付けを、現行10職群を一般職員の最高位である12職に引き上げろというものであったように記憶する。

徳沢は革同(共産系)であり、施設系統は反共産党の協会向坂派の拠点だから、猛烈な突き上げがあるのと、施設関係の職能組合である全施労の「主文二項」(仲裁裁定で施設職員の黄害対策などを講じることになっていた)の完全実施の要求もあるので、なまなかな妥協はできないという気概もあった。
ネチネチとほんとに厳しい交渉だった。

給与課としては、ここで妥協してしまって、あとは職員課のお手並み拝見の方がどんなに楽かしれないが、それでは職員課の武器を奪うことになる。
石井課長と二人、ふらつきながらも頑張った。
給与課は細長い職員局の一番奥にあって、そこから課長室や会議室に行くときは、職員課や労働課の横を歩いていかねばならない。
すると聞こえよがしに「給与局長がいく」という声が聞こえた。
私が職員局全体に逆らって独立局長のようにふるまっているというのだ。

ふだんは仲良くしている職員課の連中に白い目でみられ、職員局の筆頭課長である労働課長にも、なんとかならないか、と局面打開のために譲歩を求められた(石井課長のところにはいかない)。

何日か徹夜の交渉を繰り返した挙句、私が「保線長の12職群については、今後の交渉の進展に合わせて協議する」のような発言をすることで、なんとか交渉を前に進めることができた。
局外者には、いったいなんのこっちゃ、というような、どうでもいいような発言だが、ゼロ回答で粘りに粘った挙句の発言だから組合側にとっては「大きな前進」と下部に向かって評価して見せることができるのだ。
石井さんには、直前に了解をとりつけ(任せる、といわれた)、労働課長は「ほんとによくやってくれた」と強く手を握り締めるのだった。

53・10(ゴ・サン・トー)の交渉には、まだ早かった52年の夏頃、石井課長は私に引き出しから出したメモを見せながら、「53・10の待遇改善をどうするか」と切り出した。
貨物関係の大合理化だから、それなりの見返りを用意しなければならないが、貨物関係といっても乗務員、ヤードや貨物取扱駅の操車係から構内係、配車係、貨物係に限らず保守系統など多岐にわたる職員が働いている。
そのどの職種からも手当の増額や職群の見直しや昇格数の増配などの要求が山積している。
そのすべてに応える力はないし、特定の一部だけをよくすることは、賃金体系を歪にするだけでなくデパート組合の国労としても耐えられない。

そこで石井課長の案は個別の職種を対象とする待遇改善はやらないで「長時間・深夜労働にこたえる交代制手当の新設」と「動力車乗務員基本給表の廃止」だった。
とうじ国鉄には、特殊勤務手当としての夜勤手当はあったが、民間企業にあるような交代制手当はなかったのだ。
長時間かつ深夜に及ぶ、国鉄労働そのものを評価するような手当を新設することを、国鉄再建のための大合理化の対価とする。

かつては大駅長と同じ「判任官」にもなれたという機関車乗務員が、次第に既得権を失ったことや国労の激しい運動を嫌って(労使ともに)、経済的な要求を主体にした機関車労働組合を結成したのは1951年だった。
そして当局との粘り強い交渉と国労の反対をおしきり仲裁裁定で、一般職員とは別の基本給表を作り平均300円の格差(「動乗格差」)をつけることになったのが57年6月だった。
その後、何度かのストを構えたり公労委への訴えなどを経て格差は67年には850円までに引き上げられていた。
これをそれ以上、大きくすることは他職種の不公平感も増し、当局はもとより国労鉄労ともに受け入れられない。
しかし、動労としては設立の旗印でもあり、春闘を中心にことあるごとに「動乗格差是正」要求をトップ交渉や公労委の事情聴取の場でも執拗に繰り返していた。
それは国労との共闘の躓きの石にもなっていた。
来るべき53・10で動労がここを先途と「動乗格差是正」を前面に押し立ててくることは必定であり、ただでさえ難しい交渉を瓦解させてしまうことも危惧された。

その根っこの存在理由とでもいえる動力車乗務員基本給表そのものをなくしてしまう?!
石井課長が、その癖でもぐもぐ鼻を鳴らすようにして語る言葉に我が耳を疑った。

いつまでも国労と動労が両立しているのは、国鉄再建の阻害要因にもなりかねないだろう。
いつの日にか、両組合が一本化する日を想えば基本給表を一つにしておくことが大事だ。
それは、今やるしかない。
動力車乗務員基本給表の適用を受けている職員に特別昇給(実)を与えて動力車乗務員基本給表(名)を諦めさせよう。
併せて53・10に動労(松崎)を巻き込もう。
これは大仕事だ!

明日から松崎明を説得しよう。
私は早速松崎明に連絡した。

↑このページのトップヘ