2021年11月

組合の人との「濃密な人間関係」は、東京北局にいたときは、国労のツーさんだけだったが、本社に行ってから、動労の城石組織部長と鉄労の押尾賃対部長がそれに加わった。

函館出身、革マル派で中核派のビラで罵られていた城さんは、松崎明の側近で、松崎さんに言われて私と付き合うようになったのかもしれない。
毎晩必ずと言ってもいいくらい電話があって、銀座の小料理屋で腹ごしらえしてクラブで飲んだ。
陰気な酒で、こっちが黙っていると向こうも無言が続く。
いつも行くクラブも高齢の女性ばかりで、その人たちが席について、つまらないお愛想を言っても取り合わないで黙ってウイスキーを飲み続けていた。
たまには早く帰って子供たちの顔をみたいと思っても、帰るというと、強く引き留めるのだ。

機嫌のよいときは、歌う店に行ったり、あてもなく新宿などを彷徨うこともあった。
彷徨いながら亀戸天神の境内にある老舗割烹に初めて行って、もう閉店になった玄関で「玉子かけご飯を食わしてくれ」と頼んで小部屋で食ったこともある。
お互いの葬式には弔辞を読み合おう、と本気のようにいうのだった。

鉄労の押尾さんは広島出身、給与課のトイメンの仕事ということもあったが、石井さんと親しい鉄労幹部の推しもあって、付き合うようになった。
明るく人当たりがよく、正直で、彼と飲んでいるのは楽しかった。

何日も続く泥沼のような交渉は、動労の意向にも気を配りつつ国労が先に決着し、そのあとで、鉄労にその結論を飲んでもらうことが殆どだったが、普通なら嫌みを言ったり抵抗するようなケースでも、さっさと中身を聞いてくれた。
もっとも、国労との交渉の過程の節々で、成り行きと当局の腹の内を囁いておくから、彼の方もそれを腹にしまって、組合内部を根回ししておくのだ。
そういう「ここだけ、あなただけ」の話ができるようにしておくのが「濃密な人間関係」なのだった。
国労との交渉が終わって、押さんに「終わったよ」と電話すると「お疲れ様」と返ってくる。
それから、しらじら夜明けの町で開いている店を探して入り、我が「武勇談」を聞いてくれた押さんが懐かしい。

鉄労では、菅家中執とも親しかった。
本社の廊下を歩いていたら、人相の悪い若い男が近づいてくるので、ちょっと腰を引いたら、なんと、会津若松の機関区の青年部にいて、会津坂下駅長をしているときから、なんども顔を合わせていたのだという。

多数の主張の異なる組合、その個性豊かな役員たちと団体交渉をして、最後は同じ答えを共有する。
そのためには、四角四面な交渉だけでなく、交渉に入る前も含めて様々な根回しをする。
そこで重要なことは、立場の違う誰と対しても、常に同じことをいうことだ。
それが信頼につながり、その積み重ねが「濃密な人間関係」を築く。
当局の上司の前で、ある組合の幹部の発言を「馬鹿なことを言っている」と報告し、その幹部の前では、上司の発言を「頭が固くて困る」というような人も少なくない。
そういうことをした後に、私が当該役員のところに別件で寄ったりすると、ぜんぶバレてしまった。
嘘をつかないことが全てだ。

まず、ベアの配分における昇給交渉があった。
管理者の重要な権限であるはずの、働いた者としからざる者に昇給の差をつける「昇給管理」が厳正に行われず、組合(分会)の言うがままに全ての者が昇給するという悪平等や、組合の推薦する者を優先するというような実態が、職場規律の乱れにつながっている。
それは、労使双方にとって良くないことだ、とのこちらからの問題提起に国労も乗ってきて(自主的規律の確立)、労使協定のみならず当局側の地方指導の文書の内容についても時間をかけて熱い議論を交わした。

昇給管理について、全国総務部長会議やブロックごとの人事課長会議で説明をした。
さらに、職員局幹部を長とする現場実態調査班を設けて、各管理局・工場から2カ所の「問題現場」を選んで、現地に出張し、三泊四日で細かい項目についても視察しヒアリングもした。
真夏、北海道ならまだよいが、四国や九州へ、早朝の点呼立ち合いから作業実態の視察など、夜は管理局との懇親会があって、くたくたになり、熱を出して懇親会は勘弁してもらったこともある。

調査結果は職員局の会議に報告され、是正勧告をした項目については翌年追跡調査も行った。
現場管理者が職場規律を正そうとする際に、敢えて本社が出張っていくことで、背中を押してあげられるのではないか、というのが本社の意識だった。
静岡局が是正効果があがらないので、総務部長の葛西さんに電話して、局としてしっかり取り組んで欲しいと云ったら、「今の本社の(だらけた)姿勢では、現場も本気で取り組めない」と言われた。

のちにJR東海の会長になる葛西さんは、二年先輩で、名古屋の人事課長をしていたときに、課員をひきつれて熱田神宮まで行進したという噂があった。
いっしょに飲んでいたときに、「君は権謀術数がないからダメだ」と言われたことがある。
キリスト教や大乗仏教の他力本願が自分には合う、と云ったら、俺は自力本願だとも。
たしかに、野辺山の駅長になることが望みだった私は、出世に対する強い願望もないし、国鉄経営に対する大局観もなく、目の前の問題に夢中になっていた。

スト権ストの最中に出された政府声明を受けて公共企業体等基本問題会議が発足した(76年7月)。
この場で、国鉄高木総裁は、国鉄再建のためには国鉄全職員の志気が欠かせないとし、その志気は「到達可能な目標を掲げること」によって高めうるといった。
それは、地方交通線(赤字線)、過去の債務による負担、戦中戦後、国策遂行上生じた要員構成のひずみによる負担を「構造的欠損」として、国鉄自らが再建のために負担から切り離すべきだと主張した。
併せて民営化・分割に反対した。

国労本部も、従来のような反対一本やりではなく、経営内容によって対案を示す「民主的規制」と「職場の自主的規律確立」を提起した。しかし、それは労使協調の「経営参加」だとして猛反対があり、「民主的規制」は撤回され「民主化・政策要求闘争」に変えられた。

76年12月、当局は組合に1980年度までの貨物部門の大幅減量化計画を提示した。
列車の削減、取扱駅の廃止、ヤードの統廃合と省力化、乗務員の削減、車両の削減などにより、7万人の貨物関係従事員のおよそ20%、約1万5千人を削減しようというもの。
78年(昭和53年)10月と80年度のダイヤ改正に合わせて実施するので、「5310=ゴー・サン・トー」と呼び、労使交渉の大きな山場が設定された。

私が職員局給与課に行ったのは、77年(昭和52年)2月だ。
あの頃は、年賀状には毎年のように「いよいよ国鉄再建の正念場」と書き添えていた。
今から思えば、国鉄の終わりの始まりの戦いの最前線にぶち込まれたのだ。

石井課長は私が北局人事課長のときに営業部長をしていて、先に職員局給与課長となり、もしかすると私を総括に引っ張った人だ。
シャイであるのか、国鉄学士同士の群れには属さない人だった。
猛烈な読書家であり、クラッシックファンであることは、自身が語らないけれど言葉の節々から窺えた。
野球には一家言があって、都市対抗野球の門鉄野球部(門鉄でも総務部長?を務めた)のことになるととてもいい顔をして話をした。

自分で学び、考え抜いて自分なりの考え方をまとめている。
そのプロセスを説明抜きで断定するから、勢いで仕事をするような後輩(それが多かった)からは煙たがれた。
人見知りというのか、いいと思う相手が突っ込んでくるときちんと答えてくれたが、ダメな男と評価すると相手にしないようなところがあった。

私は国鉄に入って、初めてこういうタイプの人にあった。
勉強もせずに、大方の常識みたいなもので、仕事を進めてきたから、目から鱗のような思いをすることが多かった。

審議室の見習いを除けば本社の仕事は初めてであり、労使関係のことも拙い自分の判断が通ってしまうような人事課長であったし、難局も「濃密な人間関係」で乗り越えてきたから、給与課総括の荷は重く、給与制度などをどうするか、社内だけでなく大蔵省や運輸省との関係など、迷うことが多かった。
そのとき、過去の経緯なども含めて、こういけ、と教えてくれるのは石井さんだった。

本社でやっていけるか、自信をなくしそうになったとき、石井さんがダメを出すまではやってみよう、きついことをいう人だが、それは支えてやろうとして言っているのだと考えることができた。
とうじのQ職員局長とは近しく、Q、石井、同期の親友・泉職員課長と私たちは「歴史学派」と揶揄(陰で)された。
自分たちは「体力派」だと、嫌らしい言い方だったな。

石井さんを通じて鉄労の幹部とも親しくなることができた。

国鉄の賃金決定を表からあっさり書いてみれば、その仕事も簡単そうに見えるかもしれない。
しかし裏方の私たちは大変だった。
春闘の始まる前から、各種の賃金に関する統計やデータを整理しておく。
国家予算策定の過程ではなんども大蔵省に(深夜に)呼び出されてデータの説明をしたり、(差し入れにサントリーのダルマを持参して)質疑に答える。
国会が開かれていれば、議員の質問取りの結果待ちで深夜までかかっても、想定問答をつくり関係役員に説明することもある。

組合は合理化と引き換えに待遇改善を要求してくるので、その備えもしなければならない。
そして賃上げ交渉だ。
多岐にわたる組合要求への回答、賃上げ(ベア)だけでなく各種手当の増額・新設や、保線従事員に対する待遇改善のように、とくていの職種を代表する要求も、基本的には「できない」のだが、状況によって、前向きのニュアンスを出すこともある。
「引き続き協議する」より「引き続き前向きに協議する」や「引き続き検討する」の方がいいのだ。

ふつうは有額回答を受けて公労委に調停申請をするのだが、組合によっては当局側のニュアンスを出させるために、交渉を続け、トップ(職員局長対委員長)交渉で詰めることもあった。
すべての組合に対する当局回答は同列でなければならないのだが、動労がもう一歩、当局の動力車乗務員賃金の他職種との格差を広げることを要求し(私がくるまでずっと据え置きだった)、国労との交渉では認めなかった、「議論する」のような言葉を「勝ち取った」のだ。
すでに公労委に持ち込むための各組合との交渉記録を刷り終えて綴じてあったのに、動労に関する分を書き直し、作り直さなければならなかった。
動労としては格差拡大の要求が通るとは思っていないが、そこまで粘ったことを組合員に示さないとならなかったのだ。

何日か続いた徹夜のあと、もう一晩頑張って作業する課員のことを配慮して、抵抗する私に「いいか、給与課員の仕事のために交渉をいい加減にするとか記録を直さないなんて絶対に許せない」と、思えば当然のことを課長は云った。
直し終えたあと、国労他の組合にその事実を伝える(黙認させる)ことも私の仕事だ。

公労委に舞台が移ると、公労委での事情聴取などのほかはひたすら事態の推移を見守る。
国鉄、電電、専売、郵政で回り持ちで年ごとの幹事会社を決めて、公労委会館の前にあるプリンスホテルに部屋を借り切って連絡場所としていた。
じっさいにはお互いに集まることもなく、実態は幹事会社が自由に使うことができたので、課長と”豪華な”深夜飯をルームサービスで取って酔っぱらうこともあり、そのとき鉄労の役員を招待したこともある。

ストが続くと本社に寝泊まり、みんなは会議室の机などに貸し布団を敷いて寝ていたが、神経質な私はそういうことが出来ず、不眠不休の日が続いた。

公労委は、その年度の春季賃金改定の状況について各種調査機関の発表資料や公労委の独自調査等によってその動向を把握した上で、公益委員が、当事者の意見を聴き、労使委員との話合いを踏まえて総合判断の上、解決案を作成するとの方式が採られていた。その際、改定前における職員の賃金の妥当性について、賃金構造基本統計調査等を用い、性別、学歴、年齢によるラスパイレス方式によって、公共企業体等と民間の規模100人以上全産業との賃金水準の比較を行い、併せて人事院資料による国家公務員給与水準との比較を行う、と言われたが、大蔵省の意向も影響したかもしれない。

調停案ができると、ふたたび労使が呼び出される。
その調停案を労使が受諾すればいいのだが、財政事情もあり当局としては受諾できないので、不調となり仲裁裁定に移行する。
仲裁裁定は、調停委員長見解と同じものが提示された。 そして仲裁裁定は国会の承認を受けて予算措置がなされる。

明け方に調停委員長見解が出ると、ストライキも収束されて、私たちは通勤の足に影響が出ないように願うのだった。

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