2022年01月

「WESECOND」、大宮WEのSECONDと銘打った我が城は、二層と小さいとはいえ、飲食物販30店舗もあっただろうか、スーパーストア「サミット」も出店した“ファッションビル”の経営はまったく門外漢だった。
ショッピングセンター協会の通信教育を取って勉強した。

大宮WE(現ルミネ)M社長が兼務で週に一度来てくれて言ったことは「地域一番店になること。そのためには、二重価格とハミダシの禁止を根気よく徹底せよ」。
バーゲンセール以外のときに、テナントが勝手にセール価格(二重価格)で売り出すと、肝心のセールの売り上げが上がらないうえに、ビルの品格と信用が落ちる。
賃料の対象となっているテナントの店舗の境界をこえてワゴンを出したりするのを認めると、ビル全体が雑然として、これも品格を落とす。
ひとつの店を見逃すと、次々にハミダシてくる。

なるほど、それなら何も知らない私にもできる。
それから毎日、ひまさえあればビルの中を歩いて、二重価格とハミダシのチエックをした。
始めは、それを注意するのがなんとなくキマリが悪いような気もしたが、できるだけ明るく軽い調子で「おやおや、これはダメですよ」というと、店長たちも承知の上でやっているから、軽い調子で「あ、すんませ~ん」とひっこめる。
店によっては、毎日毎日くりかえす。
注意を受けてひっこめても、すぐにまた出す。「ほら、みつけた」「すんません」まるで子供の鬼ごっこだった。

デパート、大宮や横浜のルミネ、原宿などのファッションビル、、ひまさえあれば見に行った。
なるほど、ハミダシや二重価格は、美しくない。

営業部のOBの部下たちは、これを嫌がった。
営業部だけでなく、経理部や保安の人たちにも店を歩くときは注意してくれと頼んだ。
真面目に「取り締まる」ような言い方をする人がいて、それは店のスタッフの気分を害してしまう。
安全第一、規律第一の国鉄マンたちには、そのあたりの呼吸が難しいようだった。

開店前に必ず、「おはよう」と声をかけながらすべての店舗を回る。
軽い冗談もいうようになる。
ビル側に対する不平やお願いも言ってくれる。

開店のときは、玄関の前で丁寧にお辞儀をして来客を迎える。
日中も、なんども回って、売り上げのことなどを語り合う。
閉店時にもまわって、玄関で送り出す。
特別のことのない限り、飽きることなく、それを繰り返した。

実際、飽きることはないのだ。
何かしら、楽しいことや問題を発見することができた。

必ず現場をまわって確かめる。
それが、その後も私の基本原則になった。

駅ビル「WESECOND」の開業をひかえて、要員を増やしたなかには北海道・釧路機関区の助役をやっていた人も来た。
国鉄OBだけでなく、JRからの現役出向や、アルバイトの女性もそろって20名ほどの陣容となった。

親交を深めるために大宮公園で花見をした。
みごとな満開の桜の下で、酒を注いだり注がれたりしているうちに、ようやく「この人たちと一緒にやっていくのだ」という気持ちがわいてきた。

たまたま隣の筵に北局時代の部下がいた。
池袋車掌区の区長になっていて、部下たちとの花見にきていたのだ。
懐かしくて、そのグループに飛び入りした。
区長が、私のことをみんなに紹介してくれたら、みんなが次々に酒を注いでくれた。

国鉄がなくなって、なにか根なし草になったような気分だったから、彼らの国鉄の雰囲気をそのままにした仲間扱いが、嬉しくて、腰を落ち着けて杯を重ねた。
昼日中の桜にも酔い、ふと気づいたら、夕方になり、あたりには誰もいない。

ふらふらと大宮駅まで歩いて、埼京線のホームにたどり着いたら、急に気持ちが悪くなり、ホームの端までいって小間物屋をひろげた。
渋谷から青葉台の社宅まで、よく帰れたと思う。

JR社員の胸についている、JRの社員バッジがやたらに大きく眩しく見えた。
国鉄職員だった彼らが違う人間になったように感じられた。
名古屋臨海鉄道に出向になったときには、まったく感じなかった、ある種の卑屈な気持ちでそのバッジを眺めていた。
自分を捨てて貨物会社のために頑張ったのに、あたかも何かの罪を犯して追放されたような気分もあったのだ。
それだけに、花見であったJR現場の連中が、温かく接してくれたことは、二日酔いだけでなく、頭を上げてやっていく気持ちを起こさせてくれたのだ。

事業局で窓際勤務した後、「埼京ステーション開発株式会社」へ出向を命じられた。
埼京線の高架下を開発する会社で、まだ設立されたばかりだった。
会社オフィスは浦和駅に隣接する高架下にあった。
ガラッと、引き戸を開けると、すぐにコンクリートの三和土があって、6~7人もいただろうか、めいめいの机があって、奥の壁際に私の分もひとつあった。

私の席が石油ストーブから離れているので、寒かったことを覚えている。
メンバーは、ほとんど東京北局のOBと工事局関係のOBだった。
駅ビルを作る係と高架下開発をする係、それに総務経理だ。

駅ビルチームが武蔵浦和駅に駅ビルを作る最中、高架下開発チームはその近くに地元と組んで高架下開発の手法で別の駅ビルを作りつつあった。

一年先輩がいて、彼が経理と高架下開発を担当し、私が営業、駅ビルの立ち上げを担当することになった。

驚いたことに、6月の駅ビル開業まであと2か月しかないのに、その準備作業や工程管理の計画がなにもないのだ。
M部長に「やらなければならないことをリストアップして、毎日それを消し込みしていかないと大変だ」というと、「そんなリストが作れるような人は一人もいない。あんたはもうキャリアでもなんでもないのだから、よけいな口を出さないでくれ」と半分脅しもするのだ。
北局人事課長のときに、指定職定数を本社からもらって来て営業部の課長補佐に登用した男だった。

どうやら、そういう経験があるのはIという課長独りで、すべては彼の胸先三寸、というより、彼も出たとこ勝負で問題発生のたびに泥縄で対処していた。
なぜかほとんど事務所にいないのも不思議だった。

それでも、工事が進み、テナントもなんとか入ってきて、予定通りに駅ビル「WESECOND」(現在BEANS)が誕生した。
大宮のWE(今のルミネ)の社長に社長を兼務してもらい、ビルの名前もWEから頂き、宣伝活動もWEにおんぶにだっこする構えだった。

ビルの開業にあわせて、会社の要員も保安係をおいたりして見直し、管理体制も整備した。
国鉄のときは、私のような立場は常務取締役になるので、社長の了解を得た上で私を常務取締役とする役員名簿を本社の松田常務(当時、のちの会長)に提出し、了解をもらった。
ところが、関連事業部から、JRになったのでキャリアの出向者は無条件で役員、とくに常務にはしないと社長に言ってきた。 社長がどうしようと訊くのだ。 本社に、すでに松田さんの了解をとって駅ビルの総会でも発表してしまったと言ったら、しぶしぶOKになった。

役員になれなかったキャリアの後輩たちが、さすがに素早いといった。
常務になったからとて給料が上がるどころか国鉄時代より下がったけれど、会社統率やテナントとの交渉に肩書は有効なのだ。


事業局勤務となったが、べつに仕事を与えられるわけではない、ようするに窓際にいるだけ。
出勤すると、相部屋の課長室の片隅に座って、出されたお茶を飲み、新聞を読む。
名古屋で営業部長から外されて臨海鉄道に行く前の時以来ののんびりした時間だ。
しかし、周りは国鉄最後の日を迎えるべく大騒ぎである。
一人だけじっとしているのが辛い。
かといって、出勤しなければ妻や子が心配するし、自分もどうかなりそうだ。

しょうがないので、新聞を読み終えると外に出た。
大学に入って上京していらい、東京に住むことは長くなったが、激務に追われて昼の都内を歩くことはほとんどなかった。
この際だから、東京見物をしてやろうと思ったが、どこといって行きたいところもない。
田舎者の通例か、つまるところは浅草に行くことが多かった。
浅草に行っても、なにも面白いことはない。

六区で三本千円の映画館に入る。
仲見世で買っていった南京豆を食いながら、寅さんを見ていると、後ろからつんつん肩をつつく人がいる。

ふりかえると、ホームレスみたいな男だ。
「あんな、いい奴がいるわけはないよなあ、あんちゃん」と涙声でいうのだ。
寅さんが妹のさくらのために、いつものような一人合点の失敗をしているのをみて、そういうのだ。
のちに新聞紙上で山田監督が「同じシーンを見ても、山の手では爆笑するのに下町では泣いている」と観客の反応がまったく違うことを書いていたが、まさにそれだった。

日が暮れて、まっすぐ家に帰ればいいものを、その気になれず、一杯飲んで帰りたい。
声をかける相手は鉄労のOっちゃんだった。
彼も動労との間でいろいろあって、それどころじゃないはずなのに、つきあってくれた。
駒込のサウナに入って、居酒屋でちゃんこ鍋をつついたときだったか、明日からJRになるというテレビをみた。
国鉄最後だったかJR最初だったかの列車の出発式の様子、晴れがましいお偉いさんたちの顔をみて白々しい気分だった。
もう俺が人生を託した国鉄はなくなってしまった、あれはぜんぜん別の会社だというような気分だった。


事業局への辞令が出る前、なにもできなくなって、ひとりでぽつねんと課長室(相部屋)にすわっていることが多かった。

しょっちゅう顔を見せてくださったのは、真鍋さんだった。
早朝でなければ会えない井手さんのところに、なんども行って(名古屋から)、私の命乞いをしてくださったのだ。

一年先輩のIさんが来て「君、誰か、誰でもいい運輸省とかにツテはないか。なんとか頼んで、JRに残れるように運動しないと、ほんとに失業してしまうかもしれない」と心配してくれた。
運輸省の局長をやって、住田(初代JR東日本社長)さんの先輩になる
勲二等の叔父など逓信省の親戚も一人や二人はいたが、そういう人に自分のことを頼むという発想はなかった。
クビになったらどうしようと、心配をしないでもなかったけれど、じたばたしてもしょうがないので、テレビに映る三原山の噴火を眺めていたのだった。

そのうちに、真鍋さんが来て「井手が子会社だって言ってくれた。東日本だというから、もうそれ以上頼まなかった」とおっしゃる。
ただただ頭が下がった。

国鉄職員は、いちおうJRのどこに行きたいかの希望を取ったが、キャリア組は、一律に北海道から順番に書けと言われた。

運輸省のKさんと仲良くしているO君が、キャリアの配属先が決まったというから訊きに行こうと、誘ってくれて神楽坂の小料理屋でKさんと飲んだ。
見せてくれたプリントには各会社ごとに配属されるキャリアの名前が印刷されていて、東日本の欄には、同期の大塚君(のち社長)以下の名前がずらっと並んで、ああ、俺の名はないなと思ったら、そのあとに一段下げで私などの名前が出ていた。
私たちの名前の頭にはアスタリスクがついていて、それは出向を意味すると注があった。

私の一年上、39年採用以上は出向という扱いはなく、すべて退職して行くということだった。 そうか、とりあえずクビではないんだなと思った。

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