2022年02月

私は開発事業部で大した仕事をできなかった。
それまでの国鉄とJRの人生で、大小はともかく、どこにいても、自分でなければできないような仕事をしたという気持ちはあったが、開発の仕事では、もっと力のある人がいたらいいのにと思うことが多かった。

しかし、寄せ集め部隊の部下たちとの付き合いは楽しかった。
とくに親睦のために長野の鬼無里にある民宿に旅行して、それが楽しくて、また来年もやろうと、こんどは計画部から長野支社に転勤した山本さんと藤井君が地元幹事になって北信濃の釣や山菜取り、温泉巡りの旅はほかにない楽しさで、「鬼無里会」となづけて、毎年続けている。

計画部のメンバーだった菅原君が八幡平ホテルの支配人に出向になってからは、八幡平周辺の秘湯をめぐり、山に登り、釣りをし、夜を徹して飲み語る。
気が合わない人は去っていった反面、楽しいと思う人は、計画部やJRを去った後も、家族や知人を連れて来て、その後定例メンバーに加わったりして、今でも続いている。

中心になるのは、とうじ庶務経理などをしていた秋山さん(とその夫人)で、彼の大らかな面倒見のよい人柄に惹かれて、房総にある彼の家に行く人もいた。
いつの頃か、秋山さんの家の庭で豪勢な海の幸のバーベキューをするのが夏の慣わしになって、20人を超すメンバーや家族が笑いの絶えない半日を過ごす。
秋山夫妻の金婚式を祝う会を銚子犬吠埼のホテルでやり、豪勢な夕陽を見た後、銚子の民宿で「もう出す酒がない」と主人が呆れるほど呑んで、そのあとも銚子駅の前の大衆食堂で大酒を飲んだのはコロナ禍のちょっと前のことだ。

JR退職後、裏磐梯の古民家を買って手打ちそばの店を開いた岩佐さんも、秋山さんとのつながりでメンバーになって、なんども皆でその店に泊まりにいった。

自然が好きな人、威張らない人、酒が強い人(例外もあるけど)が共通の性格だ。
鬼無里会の過去の思い出のいろいろを繰り返して語りあうだけで時間が過ぎていく。
それがまた思い出となって積み重なる。
さいきんは、山登りや渓流釣りはやらず、秘湯などへの旅行、人形町の焼き鳥屋での新年会とそのあとのカラオケ大会、夏のBQが主な定例行事となっている。

「鬼無里会」は私の宝物になった。

田沢湖リゾート開発は、オオワシの営巣地が含まれることが分かって、計画通りには実現できなかったが、なんども現地に足を運んで夢を描いた。
田沢湖町長が、なかなか開発にOKしない。
挨拶に行ったときに、菓子折りをお土産に出したら、ぜったいに受け取らないとおっしゃった。
秋田県の役人は、用件が済んだ後、一席用意したら、まだ五時前なのに、早く行こうと催促する。
飲むピッチが速くて、あっという間に徳利がいくつも空いてしまった。
座が盛り上がるにつれて、方言が早口に聞こえて何をいっているのか分からない。
しかし、楽しい酒だった。

越後湯沢のスキー場開発の時は、町長からいろいろ注文がついた。
町議会場の会議に出席したら、越後湯沢駅からスキー場に直接乗り入れる新幹線の本数を増やせというので、本社の副社長(運転屋)に、現地から電話で直訴した。
最後の貨物会社つくりの時に、私が運転業務を旅客会社と貨物会社で相互に受委託しなければ非効率なので、そのための資料を求めたら、頑として応じないのは、彼の差し金だと思っていた。
それだけに、課長連中の拒否を覆すのは無理かもしれないと思っていたので、「君の思うようにしていいよ」と言われたのは、意外だったし、ほっとした。

私は長野で育った時から、家が貧しかったので、スキー靴などを買ってもらえず、学校でスキー場に行くときは一人で留守番をしていたのだ。
大学に入って冬休みに帰省するときに、列車の中でスキーを担いだ若者が我がもの顔に騒いでいるのをみるとむしゃくしゃした。
だから、個人的にはスキー場の開発はやりたくなかった。
開発チームの連中と安比高原のスキー場の見学に行ったときも、みんなが滑っているのをホテルでミステリを読んで待っていた。
これから高齢者のスキー客を確保するためには、もっとゆったりしたゲレンデと滑らなくてものんびり過ごせるようなスキー場にしなければいけないのじゃないか、などとも言った。

雪のないときに現れるスキーコースが禿山になっているのも胸が痛んだ。

それでも仕事なので、頑張ってGALAスキー場の開業にこぎつけた。
スキー場の経営にあたる子会社の社長と開発チームとの間が円滑を欠いて、しょっちゅう社長に文句を言いにいった。
どっちが正しかったのか、きっと、こっちの方が現場のことを「わかってなかった」のだろう、と今は思う。

ゼネコンが住宅開発などの案件を持ち込んでくるときは、その工事を自社がやりたいという動機があるのは当然だった。
しかし、JR東日本では、管轄する(JRの)工事事務所が建設業者を決めるので、その会社が指名されるとは限らない。
それでは、そのゼネコンが私たちにいろんな協力をすることについてゼネコン社内での了解が得られない。
なんとか、自社に建設させるという内諾を(できれば契約を)くれないか。

しごく当然な要求なので、本社内の建設工事部や東京工事事務所長に、お願いするが、頑として受け入れない。
せいぜいが「私を信じて任せておけ」としか言わない工事事務所長だった。

大月・猿橋の住宅開発のときは、持ち込んできた清水建設社長と住田社長の会談までセットした。
交通渋滞で清水建設社長の到着が遅れたときはヒヤヒヤしたが、なんとか会談は成立して、団地は完成した。

開発事業に関係したことで、鉄建建設の社長に、直接私が話をしたら、建設工事部長が烈火のごとく怒っているという。
会いに行って、なぜ怒っているのか訊こうとしたが「そんなことは常識だ」といって、取り合わない。
要するに建設業界は、俺たちの縄張りだから、勝手に手を突っ込まないように、自分たちの親分に直接話をするなんてとんでもないということだ。

ゼネコンの人と会食をするときに、こちらが教えてもらう立場だから、経費はJR持ちにして、上席にゼネコンの人たちに座ってもらった。
それは困る、というのを強く言って、経費については承知してもらったが、上席に座ることだけは、なんとしても勘弁して欲しい、ご馳走が喉を通らないという。
国鉄時代から、ゼネコンが下座は鉄則なのだという。
それでも、結局上席に座ってもらった。
こちら側にいる建設屋も居心地が悪そうだった。


JRになったのだから、大いになんにでもチャレンジしよう。
支社、工事事務所などがいろんな提案を持って来た。
ゼネコンや銀行などが直接開発事業部に持ち込む案件もある。
それらを視察し、事業として成立するかを見極め、良さそうなのは、社長や副社長などに説明した上で、良しとなれば常務会にかけて、実行に移す。
GALAスキー場のように子会社を創ってやらせることもある。

役員に説明するまでに担当のA常務のところで、なんどもなんども揉む。
何時間も、ああでもない、こうでもないと、数字の妥当性やらプランの現実性などにダメがでる。
もうそれだけで、担当者たちはウンザリだった。
やっと常務から「じゃあ、それで社内をまわしてみたら」とGOサインが出ると、こんどは投資計画部のチエックを受ける。
GALAスキー場のロッカーの数が多すぎる、などと指摘を受けて、はいはい、と持ち帰る。
どこが良くないのかの指摘もなしに、ただダメということもある。
部外から来ていた担当部長は、頭にきて「あいつ殴ってやりたい」ということもあった。
私が出ていって「どこが良くないのですか」と尋ねると、「ほんとにこれでスキー場が成り立つのか、自分で考えろ」と、つれない応対もあった。
群盲が象を創ろうというのだから、しょうがない面もあった。

部外の専門家が、彼らのプロジェクトを進めるスピードが月単位だとすると、JRのそれは年単位だと呆れた。
イ・アイ・イ・インタナショナルという当時一世を風靡したデべロッパーを率いる高橋治則氏と一席を共にしたとき、彼は興味をもった案件はヘリコプターで見にいって、空から「あそこを買え」と指示するのだという。

住田社長も慎重だった。
ゴルフ場開発の話は降るほど持ち込まれたが、すべて拒否した。
開発を命じられているこちらとしては、こんな塩梅じゃJRの開発事業は大したものにならないと、恨めしい思いもあった。
しかし、リゾートブームが去った後の業界の惨状を見た今となってみると、住田さんの慎重さのおかげでJRの開発事業は泥沼に落ち込まないで済んだのだとも思う。

JR本社での肩書は、開発事業本部計画部長というものだった。
民間会社になったJRが、スキー場、住宅開発、リゾート開発など、国鉄時代には出来なかったことを意欲的にやろうという新しい組織のまとめ役だ。
担当常務は新日鉄から来たAさん、ほかに日商岩井、興銀、伊藤忠、第一勧銀、三井住友銀、、いろんな民間会社から課長や補佐が出向していた。
JR社員も、建設・土木系統を主体にいろんな個所から、いわば寄せ集め集団だった。
入社したばかりの若手も少なくなかった。
出身にかかわらず、新規事業に全力投球してもらえるようにチームワークを大事に心がけた。

上越新幹線越後湯沢駅から直接連絡できるGALAスキー場は、新潟支社からの提案であったように、新生JRは各地方が、新規事業開発に熱心だった。
リゾート開発はブームで、地元支社からの持ち込み案件のほか、建設会社や銀行などもいろんな”有望物件”を持ち込んできた。
それらは、一応現地に行ってみたりして、事業成立の見込みのありそうな案件は、チームを立ち上げて勉強し、有望だと思うと自治体との協議も行う。

もっとも進捗していたのはGALAスキー場、秋田県や田沢湖町と協議が始まっていたのが田沢湖開発(宿泊施設とハーブ園だけ開業)、住宅開発では、喜連川(温泉付き別荘地)、安中榛名、中央線の大月や千葉の五井姉崎間なども土地買収が進んでいた。
国鉄時代の宿泊施設や駅舎の利用、さらには地元自治体との話し合いで、格安な宿泊施設・ファミリーオを、遠野、水上(月夜野)、館山、角館、栂池などに建設・開業した。

外からの出向者も含めて素人がほとんどなので、その道の先達から研修を受けていた。
私は、みんなの親睦を深める意味もあって、月に一度出向者から順番に、講師を推薦してもらって、話を聴いてビールパーテイを主催した。
民間会社からの出向者でもJR社員と差別せず、情報を共有した。
概して和気あいあいなチームだった。

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