2022年03月

千葉支社には4年いた。
長い方だと思うが、もっともっといたかった。
さいしょの2年を過ぎたところで取締役にしてもらった。
国鉄改革に乗りそこなった男としては、法外の待遇に驚きもし感謝もした。

千葉にきてすぐにやったことの一つは、千葉ターミナルなどの子会社にいるプロパーのOBの何人かを取締役に引き上げることだった。
それまで、役員になるのはキャリアだけだったから、多くのOBが喜んでくれた。
しかし自分がJR本体の役員になるなどとは夢思わなかった。
同じ支社長のなかでも高崎などは役員になっていたから、地元のOBたちのなかには「なんで千葉がなれないのか」と憤慨してみせる人もあったけれど。

発展途上にあった千葉で、人事課長と貨物課長をつとめ、JRになってから、そこの支社長になるなんて、出来すぎだと思っていた。
千葉でJRを辞めることになるだろう、それが一番いいことだと思ってもいた。

それなのに、4年過ぎたところで本社の「営業部長」になることになった。
しかも常務取締役として、だ。
嘘か、とも思った。

支社を去るとき、前任者は支社の前に社員が並んで、花束を貰って拍手の中を千葉駅に向かうというセレモニーがあった。
そんなことをされたら、どういう顔をしたらいいのだろう。
私は、セレモニーを断って、一人黙って支社の前にある千葉駅にむかい、総武線電車の窓から静かに別れを告げた。

人事課長と貨物課長をやった頃に、「躍進千葉」といって鉄道の電化・複線化・高架化などの近代化を進めてきたが、支社長になってみると、その果実が実っていた。
鉄道沿線に、東京ディズニーランド、海浜ニュータウン、幕張新都心、かずさアカデミアパーク、成田国際空港都市、佐倉ユーカリが丘ニュータウンなど大規模な地域開発が目白押しで、それに伴い、鉄道新駅設置や列車増発、スピードアップなどを行ってきた。

幕張新都心には、幕張メッセが完成し、なかでもモーターショーは多くの旅客が京葉線を利用してくれた。
ディズニーランドのある舞浜駅、海浜幕張駅などには、しょっちゅう出かけては、旅客誘導などの状況を見た。
人事課長時代に訪ねた、山本周五郎「青べか物語」を彷彿させる浦安とは、まったく違う世界になっていった。
現地の職員たちも、誇りを抱きながらも、いろんな苦労があった。
ディズニーランドのスタッフたちが、駅のホームで飲物を飲んで、その空缶を階段の手すりに置きっぱなしにしていってしまう。
お客の帰ったあと、空腹で疲れた身体を駅のホームで休ませようとするその姿は賑やかでにこやかな日中の姿とはまた異なって哀愁を感じさせた。

幕張新都心で働く人たちの多くが仕事のあと、船橋か東京に出てしまって、千葉市で呑んだり遊んだりしないという。
新都心のなかのレストランでは、今一つ気持ちがリラックスしないのだ。
それで、海浜幕張駅の脇に焼き鳥屋を作ることにした。
都市計画で義務付けられている線路に沿った空き地に田んぼを作って稲を育てたらどうか。
大きな電線コイルの芯をテーブルにして、ビール箱を椅子に、バケツをおいて焼き鳥の串を捨てる。
野趣横溢した焼き鳥屋は、かつて人事課長時代によく通ったビニールハウスのイメージだ。
都会人になったビジネス街の人たちにも、田舎があるはずだ。
串をほおばりながら、田んぼに映った月を眺めたり蛙の鳴き声を聞けば心も休まるのではないか。
キヨスクの先輩が、焼き鳥屋を開いてくれるという。
楽しみにして、開業披露に行くと、東京にもあるこじゃれた焼き鳥屋チェ―ンの店で、がっかりした。
田んぼも実現出来なかった(千葉市の意向)。

葛西臨海公園駅の近くの空き地で、とうじテレビでやっていてBEGINなどが輩出した「いかすバンド天国」(私はよく見ていた)を
大晦日に終夜でやってもらったらどうか。
豚の丸焼きを焼きながら。
これも、騒音問題をクリアできないということで、アイデアだけ。

いろんなことを言って、はたは迷惑していただろう。

千葉駅で現金事故が発生したので、本社の住田社長に説明方々、支社長としても責任を取ります、と言いに行った時のことだった。
社長室の入り口で、某支社長が、社長秘書とひそひそ話をしている。
何をしているの、と訊いたら、住田社長が支社にくるので、そのスケジュールを打ち合わせているのだという。
支社長自ら、そんなことをするのかと驚いた。
私は、住田さんが千葉に来ているのを、後から聞いて「あ、そう」で済ませてしまったくらいで、スケジュールの打ち合わせなどしたことはない。
高崎の支社長が、山下会長が軽井沢に避暑にくると何かを付け届けしたり、監査役が温泉に来た時も、何かと世話をすると言っていた。

私は、国鉄からJR生活を通して、上司にお中元などの贈り物をしたこともないし、任地に来られると聞いて格別の接待をしたこともないままに終わった。
それでいて、現場の人から誘われたら喜んで出かけていき御馳走になっている。
勝手と言えば勝手な生き方だった。

住田さんと千葉で二回ほどゴルフをした。
いちどは、勝浦の海の日の植樹祭に天皇のお供をして来県したとき、海の日当日に勝浦でゴルフに誘われて一緒にやり、海辺の民宿でいっぱいやったが楽しい酒だった。
酒を飲みながら、私の縁戚に運輸省の船舶局長をした人がいると言ったら、その人を住田さんは尊敬していることがわかった。
私が、貨物局で国鉄改革派に睨まれて窓際に追いやられたときに、私の行先を心配したI先輩が「誰でもいいから、住田さんに口を利いてもらうように頼める人はいないのか」と言ったことを思い出し、あのときあの伯父に頼みに行ったらどういうことになったのか、とふと思った。
もちろん、そんな気は全くなかったのだけれど。
今は亡きOという大先輩も、あの頃「住田君に君のことを頼んでみようか」となんども言ってくれたのを断り続けたことも思い出す。

住田さんが、翌日天皇皇后両陛下のお供をして蘇我駅まで列車で来たのを、私も出迎えたのだが、見ていたら、両陛下と反対の出口に歩きかけて、あわてて追いかけているのがおかしかった。
そういえば、列車が来るまで、蘇我駅で待っていた私が歩道橋を歩いたら、犬の糞が落ちていたのには驚いた。
JRと警察の管轄の境ということでもあったのか、もし行列の誰かがそれを踏んだら騒ぎだった。

住田さんとのゴルフのもう一度はカメリアカントリークラブだった。
住田さんが新しくできたゴルフ場の理事になったものの、そのゴルフ場に行ったことがないので、私と前任者(本社部長)と総務部長をお供にして行ったのだ。
接待用ゴルフ場のやさしいコース、VIP用の食堂や風呂に入って、「昼の食事は私が費用をもつ」と、住田さん(いつもそうだった)。
一日が終わって勘定をした(それは割り勘、それも住田流)ら、とても安かった。
「理事だということで安かったのだろう」とご機嫌よろしく帰った。
ところが、ゴルフ場から夕食分とプレー代が入ってなかったと言って追徴の電話があった。
住田さんが、カメリアは安いといろんな人に言ってるから、訂正しといた方がいいよ、と東京の大先輩から注意があった。
本社の部長に、訂正してくれとお願いしておいたが、さて通じたか。

住田さんは、裕福な育ちでもありグルメのようで、うまいものを食うことが好きだった。
両国の軍鶏料理屋「ぼうず」には住田さんが考案した特別な鍋があったくらいだ。
だが、グルメというのは偏屈なところもあって、住田さんが「ワインは安いほどうまい」というのはともかく、どこかのショッピングセンターの開業披露で、「この食パンは極めてうまい」と激賞したのは、なんの変哲もない山崎パンだった。

千葉支社長3年目の年末、東京の妻から電話があった。
毎週、私が帰るか妻が来てくれていたから電話は珍しい。
泣きそうな声で、JR病院に行ったら、大きな病院に行けと言われて癌研病院を紹介された、という。
大丈夫だよ、と言ったものの、足が震えて冷汗が出た。

二年前に子宮筋腫を言われていたが、すぐに手術をしなくてもいいというので、子供たちの進学や卒業が済むまで、と思ってそのままにしていたら、ガンになって進行していた。
その年の春、妻が勤務している武蔵野市教育委員会の定例検診があったとき、JRの扶養家族対象の人間ドックの方がいいからと、いってそれをキャンセルした。
ところが、JRでは、彼女の収入がほんのわずか扶養家族の基準を超えたために、ドックに入れないという。
差額を払うからと言ってもダメだった。
妻は、もともと三宿小学校の特殊学級を担当していたのを、私が会津坂下駅に転勤になった時に辞めてもらったのだが、三人の育児に一区切りついたら、本格的に教育に戻ろうと思って、教育委員会でアルバイトをしていたのだ。

癌研で診てもらうと、「なんでこんなになるまでほっといたの!」と女医に叱られた。
手術をしたが、手に負えずそのままもとに戻す。
半年間の入院、毎日午後になると病院に通った。
さいごは、ホスピスを探して、半月以上、私も泊まり込んで一緒に暮らした。
病気だけが相手で人間を相手にしない、冷たい癌研を退院して、暖かい山崎先生や看護師たちと暮らしたホスピスでの日々がなかったら、私は狂っていたかもしれない。
8月15日、敗戦の日が命日となった、享年50。

妻は家にいて家事と育児をやっていればいい。
古臭い差別意識に凝り固まった私を、心身ともに支えてくれた。
どんなに遅く帰っても、ちゃんと出迎え、朝は誰よりも早く起きて、栄養の行き届いた食事を用意してくれた。
職場で何があっても、家に帰れば優しい妻が子供たちと一緒に待っていてくれる、それがどれほど、自分の支えになったか。
とくに国鉄改革で、給料も減り将来にも不安のあった時に「大丈夫よ」と笑って言ってくれたことが。
それなのに、私ときたら子供たちのことや、彼女自身のいろんな思い(とくに教育への)について真剣に耳を傾けず、生返事で聴き過ごしにしていたことが、どれほど多かったか。

亡くなってみて、自分がいかに我がままで、妻の気持ちや体のことに無関心であったかについて思い知らされた。
小学校の同級生で、家も同じ引き揚げ者用の県営住宅の近所だった。
幼馴染だからなんでもわかっていると思っていた。
エゴイストの独善だった。

現場の人たちとの付き合いは、地域間異動者だけでなく千葉の人とも楽しい付き合いが多かった。
大原にいたS君は、釣りに鉄砲、本格的なアウトドアの人で、なんどか勝浦や鴨川の遊びに連れて行ってくれた。
ビーグルを連れて鴨川の山に鳥撃ちに行った時は、私は犬と遊んでばかりいた。

保線区のSさんは、おおきなカツオを海岸であっという間に見事にさばいてくれたり、長芋掘りの名人で、私たちが掘った長芋をうまく包んで持たせてくれた。
勝浦の海岸で、現地の現場の人たちと私の連れて行った仲間でのBBQのご馳走は、竜宮城もかくやとおもわれるほどだった。

彼らは、管理者になって転勤するよりも下っ端でも地元にいたいという人が多かったから、私にゴマをするようなことはなかった。

そういう場にも助役や区長も参加することがあったが、主導権は彼らにあって、管理者はお客様としておとなしくしていた。
それでも酔うにしたがい現場の実情を聞かせてくれた。

千葉を去ってからも、ときどき大原のS君から「でかけてこねかい」と
電話があって、出かけて行った。
有名な大原の裸祭りのときは、泊りがけで、あの勇壮な祭りの一部始終を案内してもらった。

その彼が、ガンで闘病していると聞き、見舞いに行こうと思っていると、
電話があって「また元気になったら遊びにきてくれ」という声を聴いたままでいるうちに亡くなってしまった。
葬式に行くことしかできなかった。

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