2022年04月

鉄道会館で数日過ごして感じたことは、「よどんでいる」ということだった。
国鉄OBがどっかと上に坐って、JRになっても株主が鉄道弘済会だったこともあってか、
親方日の丸の国鉄がそのまま残っているのだ。

一刻も早く、JRの風に触れさせて世の中が変わったことを知ってもらいたい。

プロパー社員のなかで、リーダーシップをとれそうな男を4人選んでもらって、彼らと東北一円の駅ビルをまわって彼らがどんな苦労をしているかを見てもらうことにした。
会社に古いクラウンエイトがあったので、それに乗っていこう。
プロパー代表のH常務やY部長が「ハイヤーを出すから、社長が運転するのはやめてくれ」と言ったけれど、若い私は自分もハンドルを握りたかった。

我が家にw君がその車を運転してきてくれて、あとは交代で運転して、白石だったかで他の3人も乗せて山形駅ビルへ。
駅ビルの人に案内してもらって(いろんな苦労談を聞きながら)、夜はこちら持ちで駅ビル社長たちと会食した。
次の日は「山形そば街道」で昼食、私は初めてだったので、山形駅でもらった案内略図をみて、駅の近くの道の両側に蕎麦屋が連なっているのかと思ったら、ずっと遠いところに、ポツンポツンとあったのだ。

そのあと、秋田駅ビル、盛岡駅ビル、仙台駅ビルと同じように都合3泊だったか、道中を共にして楽しく話しながら、各駅ビル(ライバル店もふくめて)の実情を学ぶことができた。
半分くらいは私が運転、大きな車が嬉しくて150キロも出してすっ飛ばしたこともあった。

あとで訊くと、みんなと合流するまでw君は社長と二人だけで長い距離を走るのに、どんなことを話したらいいか、と考えて、ずいぶん緊張して迎えにきたそうだ。 お互いに馴染むと間近に迫るソフトボール大会の予想などを楽しげに話してくれた。
プロパー代表の若者たちと五人で東北を一周しながら親密な時間をもてたことは、私にとっても大きな収穫であった。

京都駅ビルの開業披露宴に秘書と称してプロパーの女性を連れて行ったり、国鉄OBの定例昼食会に女性秘書も連れて行ったり、今思うと国鉄の先輩たちは顰蹙したかもしれないが、私としては、なんとかして国鉄の鉄道会館からJRのそれに変わってほしいという気持ちだった。

平成9年(1997年)、私が社長に就任したときの鉄道会館は、いわゆる「茹でガエル」の一丁上がり直前の状態だった。
一日30万人以上の通行人がいる日本一の「東京駅」、そこで年々売り上げは減少しているといっても、まだ月坪30万以上を売り上げて、東京駅名店街のテナントのなかには、売り上げよりも東京駅に出店していることが、会社の信用宣伝につながるからといって、とくだんの問題意識もない大物もいた。

社内は、役職のほとんどを国鉄(JR)OBが占めて、実務を担っているプロパー社員は営業担当常務と取締役経理部長以外は課長になるのがせいぜい、平成4年のリニューアル工事で赤字(経常利益、マイナス3億)に転落(経費削減で7年度に黒字転換)して以来、新規採用もストップし、リニューアルの効果も不十分で沈滞ムードが漂っていた。

契約面積1万3千㎡、店舗数150弱、社員数145名、ほかに子会社五社を擁する輝かしい歴史を誇る鉄道会館をこのままにしておくことは出来ない。
とくに、約半分の若いプロパー社員たちのために、もういちど生気はつらつと、東京駅の魅力を高める会社に生まれ変わらせなければならない。
そうするために、私は社長になったのだ。
いろいろあった自分の人生の集大成として、渾身の力を揮って鉄道会館を再生しよう。
そう覚悟を決めた。

「どこか小さな駅ビル」でも、といったのに、なんと「鉄道会館」の社長になれ、と言われたのには驚いた。
かつては全国鉄の駅ビル開発の元締めみたいな会社で、今も東京駅で頑張っている(2021年にJR東日本クロスステーションに統合された)。
社長は、職員局時代に局長として仕えた、ある意味では伝説的な川野さん。
その上に、会長として旧国鉄で首都圏本部長(常務理事)をつとめた関さん。
どちらも超弩級の大物先輩だ。
鉄道弘済会からJR東日本の会社になって、私如き小物でも社長にするのか、と思った。
この会社をJR東海のものにしてもよい、と言って東日本による株式買い取りに難色をしめした住田さんを一生懸命説得(さいごは松田さんが出てくれた)したら、その会社の社長になれってか、なんか冗談みたいだとも思った。

東京駅八重洲口に向かい合う威風堂々たる新槙町ビルの9階(会社は8階も占めていた)の役員室に行き、そのときは会長になっていた川野さんと相談役になっていた関さんに挨拶する。
関さんがいうのには、「住田君が直接来て、あんたのことをよろしく、というのだ」。
そのことにも驚いたが、その次の言葉にも驚いた。
「いいか、店(東京駅名店街など)のことなんか、O(営業担当常務)に任せて、おまえはJRの松田のことをいつも考えておけ。花崎(とうじ総務部長)に、お前の部屋を新しいJRビルのなかに確保しておくように言っといた」

おそらく関さんの社長としてのありようはそういうことだったのだろう。
OBのまとめ役にもなって現役を陰に陽に支えてきたのだ。

だが私はそんなことをする気は毛頭なかったし、やろうとしても出来るものでもなかった。
関さんには、そんなことを云わず「よろしくお願いします」といった。
新しいビル(新宿)にそんな部屋など出来るはずがないことは、私もよく知っていた。
住田さんは、関さんに会長を退いてくれと言いに来たのがメインの用件だったのだろう。

牧久の書いた「暴君 新左翼・松崎明に支配されたJR秘史」という本を読むと、わたしが「ジェイアール東日本企画」を設立して、本社に戻り、計画部、千葉支社、本社営業部、関連事業本部を歩いている間、松崎明とJR当局との間にはさまざまな事件が相次いで起き、、それは多くが、松崎明が会社側の「変心、西日本や東海のように革マル派と決別」するのではないか、との猜疑心(もしくはもっともな疑い)から、彼が会社側にJR東日本労組との「対等な労使関係」を維持していることを証明させ、さらに維持し続けることを迫るようなものであり、自分が住田・松田両氏といかに蜜月であるかを公にさせることを要求し続けたものであったことが分る。

些細なことでも松崎の逆鱗に触れた管理者の左遷を迫ることもたびたびで、多くの場合、本社や支社は松崎の要求に従ったことも書かれている。
そういうことは千葉にいるときも耳に入っていたので、千葉でやったなにかの講演で、千葉の現場長のひとりについて「こんな男を管理者にしておくなら千葉支社も許さない」と公言したとき、周囲の人たちは少々動揺したけれど、私は彼を激励してそのまま任務を全うさせたことは前に書いた。
そのときに、千葉の委員長との定例の朝食会で、彼を指一本ささせないからと明言もした。

しかしそのことを除くと、わたしは組合との関係は本社の経営協議会くらいしかなく、本書に描かれたようなトラブルに巻き込まれることもなかった。
私の知らないうちにS君が処理していたかどうか、たぶん無いと思う。

営業部長になったときに、反松崎のある組合幹部が接触してきて、技術屋の後輩と三人で何回か酒を飲んだことがある。
彼は、反松崎の決起の後押しをしてほしいということだったが、私はそれに乗らなかった。
乗ってもうまくいくはずもなかった。
彼が決起の際に担ごうとしている大塚君には、そういう事実を伝えると、「できるだけ接触を絶やさないように」と言われた。

松田さんが私を本社の常務にしたときに、松崎問題が脳裏にあったかもしれない。
職員局時代に私は松崎とのパイプ役になっていたから。
松崎は私が本社に来るとお祝いのゴルフに招待してくれて「今の権力者に遠慮しないで頑張って」と激励してくれた。
そのあたりに、なにかキナ臭いものを感じないでもなかったが、わたしは(職員局時代のように)それ以上の私的な付き合いはほとんどしなかった。
向こうからのお誘いや「働きかけ」もなかった。
むしろ、前に書いたように、こちらから経協の場で、組合の安全問題への取り組み方が表面的であることについて強い批判をすることもあった。

松田さんも、社長と部下としての接触以上の機会を設けようとはしなかった。
今、牧の本を読んでいると、あの頃松田さんは、そういうこと(かつて国鉄改革を進めた血判組が”敵視”している私などと親密にする)を神経質に避けていたのではないかと思う。
だから、わたしが「何か」をしようと思うなら、わたしの方から動かなくてはならなかったのだ。
だが、わたしには「何か」をするつもりはまったくなかったのだ。

ああ、思い出した。
一度だけ、本社本部の懇親会だったかの後、松田・松崎の二次会に引きづりこまれて、どこかの料亭でどんちゃん騒ぎをした。
松崎と仲の良かった亀井静香もいて、あとから小野清子も呼びつけたりして、しっちゃかめっちゃかだったなあ。
あれにも何かの意味があったのだろうか。

ホテルメッツは、とうじ国分寺駅ビルの社長をしていた長谷川忍さんが、始めた新しいコンセプトのホテルだ。
駅から至近、シテイホテル並みの快適で質の高い客室、リーズナブルな価格、宿泊機能に特化、ローコスト経営、などを特徴として、1994年久米川、武蔵境、1996年国分寺、ついで浦和、水戸、川崎などにも作られて好調な経営成績を示し、その後もさらに広く展開することになっていた。

いくつかあった新たな建設計画のうち、津田沼については、長谷川さんが、計画を建てて自分の会社(国分寺駅ビル)でやりたいといい、私たちも了解していた。
ところが、いよいよ着工という段階で、住田さんが国分寺駅ビルにやらせることはダメだという。
メッツ事業が有望だということで、ほかにもいくつかのプロジェクトに何社かが手をあげている、そういうふうにバラバラなやり方で進めるのはよくない。
たしかにそれはそうだったが、すでに久米川以下のメッツは国分寺駅ビルが手掛けて、成果をあげているのだし、なんといっても、すでに内諾を与えているから諸準備が進行中である。
とうじはホテルメトロポリタンは、メッツには意欲を見せていなかったし、ぜひ津田沼は既定の国分寺駅ビルにやらせてくれと言ったが、頑としてきかない。
結局、高架下の開発をやっている「ジェイアール東日本
都市開発」にやらせることになったはずだ(現在は他のメッツとおなじく日本ホテル経営となっている)。

私は長谷川さんに謝り、了承してもらったが、関連事業本部長なんていっても、メッツひとつの建設主体でも会長の意向を確かめなければならないような、本社の仕事の進め方にすっかり嫌気がさしてしまった。

そうして、つくづく自分はこういう大きな会社の本社組織の上で、きれいにいえば「大所高所」からなにか有為な仕事をなしとげる力もない、まして、力もないままに、本社幹部としての特権にしがみついて保身を図り続けることは嫌なのだということに、思いが至った。
常務ともなれば、黒塗りの車もついたが、ほとんど利用せず招待された料亭に歩いていって下足番に妙な顔をされることもしばしばある、そんな男は、身の丈にあった規模の会社や現場でこそ生き甲斐を感じられるのだ。

同期で人事担当常務をしていた大塚君(のち社長・会長、現顧問)に、「本社の役員を辞めたい、ついてはまだ食っていかなければならないので、どこか小さな駅ビルにでも出して欲しい」と言ったら、即聞き届けてくれた。
私を引き上げてくれたのは、松田社長だから、松田さんに言うべきだったと反省している。
さらに、少なからざる先輩たちが陰ながら私を本社に推してくれたのに、大した役にも立てないままに、勝手にやめるのは申し訳ないことだとも思ったが、相談してどうなるものでもないし、さっさと辞めるというしかなかった。

辞めると決まってから、関連事業本部の組織改正の話が出て来て、私はその頃の関連事業本部の仕事の仕方のアンチテーゼのつもりで、ぜったい実現しないだろうと思いつつ、固定的な部課制や個人ごとの担務制を排して、仕事に応じてその都度最適な人材を集めて機能的に取り組む
グループ制、ギャング制を基本にした案を作った。
企画部長のS君が松田さんに説明したら、すっかり気に入って、それが採用になった。
しかし、それは単に名称を○○グループと、カタカナで呼ぶだけで、私が企図するようなものとはまるで異なる、内容は旧態依然たるものだった。

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