2022年05月

難航する退店交渉は、ほとんど私の孤軍奮闘だった。
社長マターとして、部長以下では向こうが相手にならないこともあったが、どうしてもその店を動かさないと、ゾーンのコンセプトが台無しになるということに対する問題意識が、残念ながら社員たちに共有されていないこともあった。
今まで、名店会の店としてやってきているのだから、何もそうむげに追い出さなくてもいいじゃないか、社長がやるというならお手並み拝見、そんな空気もあったのではないか。
工期ギリギリの最終場面で、専務はスキー部の顧問とかで社員たちと遊びに出かけてしまうのだ。

テナント選び、その内装外装、通路の舗装、照明、、すべてに細部にわたるまでないがしろにせずに、計画したイメージを実現しようとする私。
それは、社長の私がこだわらなくて、部下の誰がやるというのか。
社内の昔からこの仕事に関わって来た技術屋たちは、工期工費の制約の中で、JR東日本からのいい加減な注文など、いろんな問題が発生するたびに、適当なところで妥協して前に進めようとする。
そうやってきたのが、国鉄時代からの鉄道会館の”伝統”だった。

素人の社長が「俺がやらなくて誰がやる」と力みかえるのは、決して褒められたことではない。
そう思い、専務以下に任せてしまおうと考えることも再三あったが、いざ現実の問題処理の場面になると、任せておいたら、せっかくコンサルタントと描いた絵が、まさに画餅に帰すのだった。
コンサルタントのOさんも、常に昼夜を問わず直接私に問題をぶつけてくるのは、それが解っていたからだった。

専務以下がJR本社との打ち合わせ会議がある日は、彼らが出かける前に、早朝会議を開いて、あらかじめ本社との打ち合わせ事項について相談をして、JRが言ってきそうなことに対して、それについての会社の態度をきちんと決めておいた。
経験上、JRが言いそうなことに対して、拒否する場合の論理構成を授けておいた。
しのぎきれなかったら、最低限「帰社して社長の意向を確かめます」と、そのくらいは言ってこいと。
そうしないと、彼らはJRで言われたことをそのまま了承しておいて、時間をおいてから、しかるべき言い方で私に報告するのが習いだった。
そうなったときには、もう遅いのだ。


キッチン・ストリートと黒塀横丁には心血を注いだ。

出店候補の店の試食や直接オーナーにあっての出店要請では沖縄や九州にも行った。
コンサルタントが薦める店でも試食してみるとレベル以下の店もあった。

地下の黒塀横丁は、神楽坂の路地の店のイメージということで、神楽坂を知らない若者たちを連れて神楽坂を歩いた(夜)。
通路の照明を落として雰囲気を出す工夫もした。

黒塀横丁では、根津の串揚げ「はん亭」、銀座のおでん「おぐ羅」、新橋の焼き鳥「鶏繁」などと契約して、東京RB商事のメンバーを修行に出して、それぞれ「串はん」「羅かん」「繁乃井」として開業した。
東京RB商事の体質改善もリニューアルに伴う大きな課題だったからだ。
さらに東京RBの調理師たちをノイに預けて全国の店を見て歩きながら、食に携わる者としてのあるべき姿を学ばせた。
手料理にこだわった家庭料理の店「為御菜(おさいのため)」は、その成果であり、開店後繁盛店となった。
キッチンストリートでは、京橋ドンピエール(カレー)、リストランテ・ヒロ(手長海老のパスタ)片岡護シエフのアルポルト(ドンブリとイタリアンのミックス)、赤坂たけがみ(蕎麦)、南国酒家(あんかけ焼きそば)、筑紫楼(ふかひれ麺)、博多ラーメン、仙台喜助(牛たん)、銀座にしむら(明石焼き)ダ・チーボ(ナポリスタイルのピッツア)

黒塀横丁では上にあげたほかに、沖縄から初出店「龍潭(りゅうたん)」、吾照里(韓国)、日本橋古都里(稲庭うどん)、東京RBによる黒毛和牛ステーキの店「ビモン」
などが並んだ。

もっとも苦労したのは、退店交渉だった。
部下たちで収まる店は少なく、私がなんども話をしに行ってもなかなかウンといってはくれない。
新しいゾーニングで要になる位置にある店がもっとも難航した。
訴訟でどうにかしようと思い本社に相談すると有名弁護士を紹介してくれた。
会ってみるとはなはだつれない対応だった。
そのテナントは言葉のはしばしに、「JRの偉い人に頑張って居座れと言われている」、
「お宅の社員も頑張っていれば何とかなる」と云ってる、などという。
大物の政治家との関係も噂されていた。
話し合いが決裂して送っていくと豪壮なマンシヨンに消えていく。
ホテルなどあちこちに店をだしているのだ。
退店、それが無理なら別の場所に移転してくれと、なんど説得に行ったことか。
(つづく)

東京駅北部のリニューアルにあたって、いくつかのコンサルタントに声をかけてコンペをしたが、丸ビルのリニューアルに関わったノイのOさんにお願いすることになった。
彼と議論を重ねて、

駅を利用する人、周辺のビジネスマンたちなどが、気軽に「うまいもの」を食べる場所がない現状。
たとえば、夜東京駅に帰ってきた旅行者が、わざわざ駅の外まで行かなくても、食べる気になるようなレベルの店、ゆっくりできる店がない。

そんな現状に鑑みて、今まで駅ビルなどに出たことのない、名店、老舗店に出てもらう。
それらの店の多くのメニューのなかから、こだわりの一品に特化した業態にする。
そうすることにより、厨房などの設備投資が抑え込める上に、スタッフの熟練が得られやすく、安定したレベルでのサービスが提供できる。
それぞれの店のメニューは限られていても、ゾーン全体では、いろんなメニューが選べるから、お客様は毎日でも来ていただける。
今までだったらわざわざ出かけて行かなければ入れなかった名店・老舗を集めることで、価値のある、しかも坪効率の高いゾーンとなる。

昼夜、平日休日のそれぞれの客層(気分やシーン)に合わせた店並びとする。

具体的には、地下一階は「黒塀横丁」をコンセプトに、ゆっくりモード、路地裏感、その雰囲気を楽しみながら、仲間や家族とゆっくり食事を楽しむ。
料理の基本である「だしとベーススープ」への強いこだわり。
一階は「キッチンストリート」をコンセプトに、和洋中、それぞれの道を究めた老舗店のこだわりメニューのなかから一品に特化して提供、クオリテイの高い「たかが〇〇、されど〇〇」と言われるメニュー、外の路面店で食べればコースでしか食べられない、または高価な一品がリーズナブルな価格で気軽に食べられる。
小坪の店の集合で、ボリュームアップが図れる。

老舗店の出店については、Oさんには既にかなりの成算があるということだった。
名店・老舗は、後継者の育成のためにも、こうした企画に乗って来る可能性は十分にあるとのことだった。

候補店をリストアップしてJR東日本のH副社長(のちリソレ銀行の会長になる)と事業創造本部幹部に説明した。
事業創造本部の部長は「このリストの半分でも実際に出店したら、大変すごいことです」と言った。
いまでは、私たちの成功をみて、いろんな老舗や名店があちこちに出店するようになったけれど、当時は駅ビルでそんなことが可能だと思う人は少なかったのだ。

東京駅名店街の「共生」というコンセプトだって、今でこそ、自然に受け取る人は多くなったが、あの頃は社員もテナントもチンプンカンプンというような状態だった。

そういう新しい価値の創造に向けてレッツゴー!だった。

国鉄民営化後、関係者たちの集まり「東京駅周辺地区再開発連絡会議」において、東京駅東京駅八重洲側には、北部3棟、中央部1棟、南部2棟のビル群がつくられることになっていた。
先に触れた「PCPビル」もその一環であり、その後、2008年までには、鉄道会館の本館と南部の建物は取り壊されることになっていた。
大丸は北側ビルの低層部に移転するのだ。
さらに、南部の「ラーメン激戦区」や「おやつの時間」など東京駅名店街の主要部分はJR東海に無償で譲渡する約束になっていた。

こうしたことは、鉄道会館の基幹を揺るがすことであり、なにごとも「親会社様=JR東日本」の仰る通り、と受け身の対応(それだけでも相当大変ではあるが)で、済ましていたら、社長個人は任期をまっとうすればそれで了となるかもしれないが、一生をこの会社に託している社員はたまったものではない。
また、八重洲側を丸の内側に劣らず、魅力的な空間にしようというJRや関係者の意図も、そこで現実に今まで頑張って来た、また新しい魅力を造り出そうとしている鉄道会館が、どんどん意見を云っていかないと、実現できない。
ハコだけ作っても中身が伴わなければ、なんにもならない、その中身は鉄道会館の守備範囲だ。

積極的に、JR東日本のプロジェクトに協力し、みずからも当事者としての役割を果たすべく、社員にその概要を説明するとともに、「八重洲開発推進プロジェクトチーム」を発足した。

JR東日本主導の八重洲再開発への対応だけでも、てんやわんやの大騒ぎになるのは必定だったが、基幹部分亡きあとの鉄道会館の収入確保の観点からも、今まで手がつけられてなかった北部飲食ゾーン、約2600㎡のリニューアルも行う決心をした。
まさに「乾坤一擲」の大勝負にでようというものだ。

その過程で、SC運営(本社)、飲食店経営(東京RB商事)、建設(アール・ビー都市建築設計)、設備管理(アール・ビー工装)の鉄道会館グループが、押しも押されぬ実力を身に着けて、そのグループ力でJR東日本直轄の各社とは一味違う機能を果たすようになりたいとも思っていた。
大病院が、循環器内科、消化器内科、呼吸器、、それぞれ専門科別に別れていて、何も知らない患者として、どこにどういう相談をしていいのか分からない弊があるように、JR本体のそれぞれの会社も縦割りで、施主のほんとに知りたいことの相談に乗れないようなところがありはしないか。
自分が作りたいレストランに、向いている内装工事会社はどこか、しかるべきスタッフはどうすれば集められるか、、そんな相談にも応じられる、小回りの利く有機的なグループにしたい。
そんなほのかな夢ももっていた。

東京駅地下構内の「銀の鈴」は、初代が1968年に東京駅助役の提案でできたものが、1985年東京駅名店会が開業30周年を記念して、新しいものを作成寄贈して、以後22年にわたって、場所は一階から地下に移るなどしながらも東京駅の待ち合わせシンボルとして親しまれてきた。
2007年、JR東日本は、この銀の鈴広場を、エドワード鈴木氏の設計で改装するにさいし、新たに銀の鈴も今のものに変わった。
私などは、前の大きな鈴のほうに心が残ったものだ。

銀の鈴広場の改装にあわせて、本格的和食店「けやき銀の鈴店」、「ラーメン亭銀の鈴店」、「バリ銀の鈴店」などを改装または新規に出店したが、とくに本格的なイタリアンバール「アンジェロダルジェント」とお茶と甘味の新感覚カフエ「銀の甕」は、それまでの駅構内にないものを作ろうと力をいれた。

このときも、東京RB商事だけでは、無理と判断して、原宿や赤坂で有名なカフエを経営しているYさんに店の設計やサービスについて力を貸して欲しいとお願いし、彼は快諾してある男・Zを派遣してきた。
「銀の甕」(まだ名前は決まったいなかったが)は、zに任せれば大丈夫だというので、東京RB商事のスタッフに、よく教えてもらうように言い聞かせたのだが、どうもうまくいかない。
開業日が近づいているのに、一向にzは動かないという。
たまりかねたスタッフが、自分たちで手を出すと、怒って帰ってしまったと、私の家に電話があったのは、真夜中のことだった。

身内のことは良く知っているからアラもよく解るが、外の会社のことはいいところしか見えない。
他人を信じやすい私は、Yやℤを信じて、あんたたちが余計なことをするから、怒らせたのじゃないか、すぐに謝りに行け、といった。
ところが現場に行ってみると、たしかに彼らの言う通りで、ℤが力もない癖にYに安請け合いをしたことが解った。
急遽、Yを推薦してくれたコンサルタントが自分たちでなんとか辻褄合わせをして開業にこぎつけたが、とうしょ期待した店とはだいぶ異なるものになってしまった。
これも、ギーニョギーニョと同じく、私が正しい相手を選ぶ力がなく、コンサルタントの推薦と、その名前に幻惑されて、ほんとに実行する人材の力を見抜くことができなかったことによる失敗である。

話は変わるが、アメリカで、あるレストラン経営者の話をきいたときに、東京RB商事の店舗数が80店舗ほどだと言ったら、驚いて、それは一人の経営者でみるのには無理があるのじゃないか、といった。

毎日のように、早朝から駅構内に出ている東京RB商事の食堂などをいくつも回って、じっさいに納豆定食を食べてみて、「辛子の包を破くときにお客様の服を汚す恐れはないか」とか、店頭の蝋細工の料理見本の汚れや新旧入り乱れているのに注意したりしていた。
そうやって、私の「現場第一=お客様第一」の実際の姿を模索しつつ社員たちに浸透させようとも思っていた。

たしかに、それを80店舗についてやり続けるのは物理的にも困難だった。
しかし、「組織でやる」という従来の、今も多くの巨大グループを抱えた企業のやり方では、けっして私が作りたいような、世界一の東京駅にふさわしいような質を備えた店はできっこないのだ。
たった一軒だけの老舗でも、創業者や店を支えた調理長がいなくなると、あっというまに見る影もなく凋落していく例は多いのだ。

いくつものプロジェクトを同時進行させながら、既存店のレベル向上を図る。
その過程で社員たちのレベルアップを達成し、私がいなくなっても大丈夫な企業グループにする。
難しくても、私自身の仕事だと思っていた。
国鉄やJR東日本の本社では出来なかったけれど、鉄道会館ならなんとかなる、死ぬ気でやれば、と。

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