2022年06月

会津坂下の人はみんな懐かしいのだけれど、今回はこの人。

筆頭助役(職名ではなくいちばん先輩の助役)の長さん。
駅員たちはちゃんと○○助役さんと呼んでいたけれど、わたしは長さんと呼んだ。
現場では、とくに管理職に対しては、きちんと職名をつけて呼ぶのが普通だったから、「わし、ちょうさんですかあ」とちょっと面食らったようだったが、そのうち、ほいきた長さんになってくれた。

最年長で、ずっと会津線にいた。
坂下から只見にむかって二つ先の会津柳津の旅館の長男?で、それがゆえに会津線を離れることを嫌い駅長試験は受けなかった。
「頭がいいし、何でも知っている」と他の助役は、少し恐れをにじませて話してくれた。
鉄道現場の知識に詳しく、運転保安関係について、現場幹部がなにより怖がる管理局の保安検査への対応などでは、彼の「指導」を大事にして準備した。
といっても、もう上に行こうという気持ちがないから、私の立場がおかしくならない程度の準備を教えて(今までの駅長の準備万端ぶりはこんなものじゃない、といいつつ)くれた。

官僚的な運輸長や管理局の指導で、理不尽なことがあると、私は「それは間違っている」という。
長さんは、「そんなこと言ったって、どこの駅でもこれに従っている、駅さんは学士だからそんなことを言える、局も本社も駅さんのように考えてくれればいいけれど」とちょっと不貞腐れることもあった。

正直なところ、私以外の助役を含めた駅員たちがおそれていたのは、少しだけ意地の悪いところもあったのではないか。
私は頼りになる親父みたいな感じで、たいていのことは相談してやった。
留置線に置いてあるタンク車からぽたぽた洩れる石油を貯めて、石油ストーブで楽に暖をとることなんかも。
コークスのストーブが決まりで、石油ストーブなんか支給してくれなかった管理局だった。
私が酔っぱらって不始末をしたときに尻ぬぐいの方法を指南してくれたのも長さんだった。

酒が好きで、しょっちゅう酒を飲む会を提案した。
出札のムネやんも酒好きで、二人とも強かった。
若宮の朝鮮人の民家でドブロクをあおって生の豚のモツを食らった。
今でも行きたいくらいうまかった。

会津坂下は特殊日勤といって、駅長は日勤だが、その後21時過ぎの最終まで駅の仕事はあって、助役が交代で当務駅長として列車扱いをする。
その後、出番だった駅員は駅に泊まって、翌朝の列車を扱い、日勤時間帯に出てくる駅長以下当務駅長たちと引継ぎをするのだ。

妻が長男のお産のために東京にいて、私が単身でいたころ、一杯やってから駅に行くことがニ三度あった。
ようすを見たいというつもりと、みんなと話したい気もあったが、長さんが最終列車のあと、酒を飲んでいると告げ口をする人がいたのだ。

私が行った時は、誰も酒を飲んでいなかった。

あるとき、長さんが「駅さん、夜になって駅に来るのは止めてくれ、みんなちゃんとやってるところに赤い顔をしてきていろいろ喋っていくのはよくない。何かあれば駅長官舎に知らせるから信用してくれ」ときっぱり言う。
それから、夜駅に行くことをやめた。
赤い顔をしていなくとも、行くのをやめた。
仕事がすべて終わってひと風呂浴びて、狭い寝室で雑魚寝する前に冷や酒の一杯や二杯、呑んだところで、何が問題だ、俺だって機関士見習いや局の指令当直見習いのときに茶碗酒を飲んだではないか。
と思ったのだ。
密かに駅に行って、彼らの飲酒現場を見つけたら、いったいどうするのか。
もしかしたら、自分も一杯(落語の禁酒番屋や二番煎じのように)付き合うことになりかねないとも。
それとも、「俺の任期の間だけは禁酒してくれ」とでもいうのか(アホか)、と。

一年過ぎて、人事異動で、千葉局に異動するとき駅員たちに挨拶をしていたら、涙がこらえられなくなって、せき挙げてしまうと、すぐに長さんも泣き出して、ほかのみんなも泣き出した。

懐かしい人たちのことをときどき書こう。

会津坂下駅の人たちはみんな懐かしいのだけれど、今回はSさんのこと。
五十になろうかというSさんは、踏切保安係(踏切警手)だった。
小柄で、やせっぽち、いつも笑顔でみんなから「しょうちゃん」と呼ばれていた。
仕事は真面目一本だ。

しょうちゃんが、受験勉強を始めた。
国鉄は上位の職務につくのには試験に通らないとダメなのだ。
筆記試験さえ通れば、日ごろの勤務成績や駅長の推薦も影響するけれど、しょうちゃんはその筆記試験が苦手だった。

試験が苦手だから、ずっとこのまま踏切番でいようと思っていたしょうちゃんの気持ちを変えたのは息子の一言だった。
雨の日も雪の日も、とうちゃんだけが踏切に立っていて、駅長さんや○○君のとうちゃんたちは駅んなかにいるのは、なぜなの?
なんでとうちゃんだけなの?

出札や改札担当になれる運輸係(だったと思う)の試験のために鉄道学園の通信教育を受け始めた。
「わがんねなっし」と頭をかきながら、それでも続けた。
いちばん苦手な英語は近所の中学生に教えてもらったのだ。

筆記試験に情実は効かないとは思ったが、運輸長や局の人事課にしょうちゃんのことを、よろしくと電話はした。
しないではおれなかった。

みんなで駅の草むしりをしていると、駅で留守番をしているAさんが、「駅さ~ん!局から電話!」と叫ぶ。
みんな、駅長さん、ではなくて駅さんと呼ぶのだ。
走って電話を取ると、Sさんが合格したとの知らせだ。
すぐに取って返して「お~い、しょうちゃん合格だぞ~」と怒鳴ると、みんなわっと大騒ぎ、私は胸が熱くなった。

駅長官舎で、しょうちゃんを囲んで大いに飲んで騒いだ。
しょうちゃん、元気かな。

そろそろ44年のネタが尽きてきた。
まだまだ書きたいこともあるような、書き残したこともあるような気がするが、いちおう毎日書くことはやめて、あとは気が向いたときに書くことにしよう。

独りよがりが目立つかもしれない、しかも書きなぐりの乱文にお付き合いくださった方、コメントをいただいた方々に感謝します。

また気が向いたらおいでください。
またコメントはいつでも受け付けますので、疑問に感じたことなども遠慮なく書いてください。

ではまた。

日本ホテルの常勤監査役でやったことの、もう一つはJR東日本グループ会社の監査役連絡会といったか、研究会兼親睦会みたいな会の会長をやったことだ。

私が一番年次が上だったから、逃げるわけにいかず引き受けた。
年に一度の総会会場は各社の回り持ちで東北や長野などに行けるのも嬉しかった。
きちんと会計報告もあり、年次報告と次年度の事業計画なども、立派なものを作った。
総会では、誰か講師を呼んで講演会をやり、土地の名士や話題の人物、JRの幹部や先輩の話も聞いた。
終ったあとのパーテイがあり、翌日は有志で近所の観光地を歩いた。

そのほかに、法規の勉強会や講演会もたびたび実施、その内容や人選、出演交渉などを役員たちが集まって決めていくのも、楽しみ(私には)だった。
講演会はJR東日本もグループ社長会などで何度もやっていたけれど、講師の選び方は監査役会の方も負けていなかった。
どこの依頼でも講師を派遣しないというあるフアッションメーカーを、かつて一緒に学んだこともある若い女性が口説き落としてくれて、有益な将来構想などを具体的に聞くことも出来た。
それは、ある時期を限って会社の「あるべき姿」を明らかにし、そのためには何をしなければならないかを、具体的に年次計画に落とし込むというもので、ある意味では経営者は当然やらなければならないのに、JR本体および子会社の多くが、やれていないことで、鉄道会館のときに必死になってやろうとしたことだった。

監査役になっている後輩たちのほとんどは社長経験のない人たちで、一抹の寂しさはあったはずだが、こういう活動をすることで活力を得ていたのではないか。
打ち合わせのあと、または定例的に飲み会もやった。

監査役を辞める人が、「これでやっと家を離れてゆっくり旅行ができる。かみさんに頼んで20万円と10日の旅を認めてもらった」と喜んでいた。
キャリア組でなく、都内の大きな駅長まで勤めて、その後関連会社で部長職を経由、監査役になった人で、その間、いつ何が起こるか分からないので家を離れることはなかったというのだ。
そういう人たちが国鉄・JRを支えてきたのだ。
その人とはいっしょに仕事をしたことはなかったけれど、私のことを認めてくれる一言があって、私にはなによりもの「表彰」だった。

辛抱強くJRの幹部を説得して愚劣な体制を是正させただけで、私は責務の大部分を果たしたようにも思えたが、せっかく監査役というポストにいるのだから、もうちょっと会社の役に立つことをしようと思った。

といっても、いわゆる会計帳簿を鵜の目鷹の目でチエックするようなことは、執行部の監査部と監査法人に任せて自分ではいっさい見なかった。
やったことは、各種会議に出席すること、池袋、飯田橋、東京の各ホテルや赤羽、津田沼、国分寺、溝の口、浦和、高円寺、武蔵境などのメッツ(日本ホテル傘下)を見て歩くことだった。
そこで支配人だけでなく食堂のスタッフなどに、とくだん改まってではなく、話を聞いていると、いろんな問題点が解ってきた。

細かい具体例はほとんど忘れてしまったが、たいていはお客様に接する現場で、いちばん大切な細部がないがしろにされていることだった。
たとえば、清掃が行き届かない、それを現場に即してつめていくと、業務委託によって、具体的な問題をスタッフに指摘する体制になっていない、そのせいかホテルの人たちが、日々清掃の状態をチエックして、是正しようという気持ちにもなっていないのだ。

気がついたことを毎月10項目くらい、箇条書きにして、社長に一時間くらいかけて説明し、善処することを求めた。
社長は、ほとんどの指摘に頷いて「わかりました」と答えるのだが、目に見えて改善されることは少なかったように思う。

150人規模の鉄道会館でも体質改善をはかるためには、社長はよほどの能力がないかぎり、死に物狂いにならなければならない。
まして日本ホテルグループははるかに規模が大きいのだ。
私には、社長がよほどの能力に恵まれているとも、死に物狂いになっているとも見えなかった。
また、日本ホテルが体質改善をしないで一流ホテルとして顧客の信頼を得ることは難しいとも思った。

日本ホテルを見ている過程で、本社マターだと思われることも少なからず見つけた。
それは月一度のグループ監査役会議で、本社の監査役に問題提起した。
これもほとんど、反対とか異論をぶつけられることはなかったが、実行に移されることは少なかった。

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